RAY、曲目発表!!

ごぶさてしております(笑)!仕事が忙しい!!でも、新譜のタイトルが発表されたとなると、これはもう記事を書かずにはいられません(ならベストのときはどうなんだって話ですが)。

HPより。

1. WILL
2. 虹を待つ人
3. サザンクロス
4. ラストワン
5. morning glow
6. ゼロ
7. トーチ
8. Smile
9. firefly
10. white note
11. 友達の唄
12. ray
13. (please)forgive
14. グッドラック

既発曲は、「友達の唄」「Smile」「ゼロ」「グッドラック」「firefly」「二次を待つ人」の6曲、新発表の曲が8曲となっています。インタールード的な曲は無いとすると、結構なボリュームになりそうです。
「RAY」とは、細長く伸びる一筋の光のこと。ざっとタイトルを見渡してみると、アルバムタイトルよろしく”光”に関連するものが目白押し。「虹を待つ人」「サザンクロス」「morning glow」「トーチ」「firefly」「ray」・・・。この楽曲群ではもちろんのこと、おそらく他の曲でも“光”という概念に触れるものは多いのではないでしょうか。

“光”をテーマにした曲はこれまでも多々ありました。
スポットライトとして自分を照らしてくれる「リリィ」や「Stage of the ground」における光。「カルマ」では、それを浴びてしまうことの罪悪が歌われました。
ユグドラシル期にはこれまた多い。自分が目標とするものであり、自分自身の存在を規定するもの。「オンリーロンリーグローリー」や「sailingday」はこれにあたるでしょうし、「ギルド」や「同じドアをくぐれたら」、「太陽」では、人のぬくもりや過去の憧憬について光や眩しさのモチーフが使われてきました。ただ、このへんは、「一筋の光」たるrayとはちょっとニュアンスが遠いかもしれないです。

orbital periodのvoyagerでは<夜空に光を放り投げた/あの泣き声はいつかの自分のもの>と歌います。誰かを求めながら、宇宙空間を一人飛び続ける宇宙船ボイジャー号。はかなく、眩しい軌跡。これが一番"RAY"のニュアンスに近いのじゃないかな、と邪推しています(そもそも「RAY」というアルバムと「orbital period」という2枚のアルバムを比較してみるとすごく面白そうだなぁともぼんやり思っています。「orbital period」のなかを飛びまわる「RAY」・・・。これはまた、アルバム発売してからじっくり考えたいと思います。

昨年はなんと記事数ゼロ!でしたが、今年はもう少し書いていけたらな、と思っています。ちゃんと更新していきますので、今年も、今後とも、よろしくおねがいします(笑)。いやいや、中学生のときにバンプオブチキンに出会って、それからいろいろな音楽に触れてきましたが、やっぱりバンプは特別なバンドなので。アルバム曲が発表されたときに、他のバンドじゃありえないくらいの気分の高揚を感じて、改めて思ったのです。

・・・・・・
余談1
アルバム収録曲に「トーチ」、ありますね。当ブログのタイトル「torch songs」です。なんかドキッとしました。
ちなみに「torch song」とは、「片思いの歌」の意味です。バンプオブチキンへの一方的な愛情、てなかんじで、若干の自虐も織り交ぜて命名しました。
「トーチ」、今回のアルバムでは一番気になる曲です。

余談2
なんか今回は「乗車権」「才悩人応援歌」「分別奮闘記」みたいな、漢字でおやおやっ、と思わせる曲が無いですね。
ほんでもって、一単語で完結するタイトルが多い。なんか、サッパリした印象があります。
際立つ「(please)forgive」の表記の謎・・・。

余談3
発売日が3月12日。当初予定は2月だったし、ラジオでも「スタッフのせいで〜」とか言ってたみたいなので、深い意図は無いのかもしれませんが・・・。

余談4
ツイッターはじめました。バンプのことあんまつぶやかないけど、もし良かったら声かけてやってください!→@ryo_sll

ゼロ〜絶望的な祈り〜

終わりまであなたといたい それ以外確かな思いがない
ここでしか息ができない 何と引き換えても守り抜かなきゃ”

傷ついて、セカイに追いやられて、互いを呼び合おうとする二人。そんな断末魔のラブソングが紡がれているのが「ゼロ」です。

その二人の影姿は、ある種のリアリティを持って、切実に響きもする。正しさ”らしき”ものは存在するけれども、それを信じることはできない。しかしながら、かつて世界に敷き詰められたその秩序に抗うこともできず、力を持たない二人はただ名前を呼びあうだけしかできない。

一方で、

配られた地図がとても正しくどこかへ体を運んでいく
速すぎる世界ではぐれないように 聞かせて唯一つのその名前を

飛べない生き物 ぬかるみの上 一本道の途中で見つけた自由だ

と歌われているように、恣意的に定められたに過ぎない世界の中で、似たような傷を抱えた他者が互いを慰めあうだけの歌とも評価できる。

物語の主人公たちに同化して、悲劇を追体験カタルシスに沈む。それもまた、たいしたことない日常をときにドラマチックに彩り、時に安息なるすばらしき世界として認識するために必要な処方ではあります。
けれど、使いすぎには注意をしなくちゃ、自分の心で世界を感じなきゃ、という提言もまたあってしかるべきでしょう。

ひょっとしたら、配られた地図の正しさなんて、なんてことのない枠組みにだまされているからなのかもしれない。あたりまえに、世界には2人だけしかいないわけでもない。もっと声高に自分の名前を叫べば、たくさんの似たような誰かが集い始める可能性を考慮しなくてはならない。

諦めの感情を前面に押し出している歌ではないのは間違いありません。たとえばIt's wonderful world以降のMr.childrenに典型的な、端的には「彩り」という曲のような、大きな夢はかなわなかったけれど家族のことを大事にしてそこそこの生活に確かな喜びをかみ締めていこう?というような提言を、バンプはしません。諦めの感情はすでに前提とされたうえで、なお悲嘆に溺れる、あるいは魂の平穏と決別してあえて激情とともに燃え尽きる。それでもなお、世界の枠組みと向き合うことはけして歌いません。Orbital period以降のバンプのモードは「世の中は絶望的なんだよ!だから絶望的なツラのまんまでかまわない、とりあえず歩け!んで死ぬまで一緒に生きよう!それで何とか切り抜けられるから!!」です。

自分自身も、ひょっとしたらいつの日にか客観的に見て「ゼロ」の主人公になれる瞬間が来るのかもしれない。でも少なくとも今の自分には、遠く離れたところから二人を眺めることしかできない。ある程度の距離を保つことが彼らに対して倫理的な心的態度なのだと思っています。

伝えきれなかった、グッドラック−彼は何を言うことができたのか?

 グッドラックは、走馬灯の様な詞だなと思います。その言葉が具体的な場面で実際に発語されたものなのか、物語の主人公があとから追想して出てきたものなのか、まずそもそも物語の枠組みで語ることが正しいのかどうか。
 ここでは、歌詞の全てが、追想であると仮定して考えてみたいと思います。
まず冒頭です。

君と寂しさは きっと 一緒に現れた
間抜けな僕は 長い間分からなかった
傍に居ない時も強く叫ぶ 心の側には
君がいる事を 寂しさから教えてもらった

この部分に代表されるように、Aパート(この曲は16小節のフレーズ2パターンのみで構成されています)は語尾をチェックすると、全て過去形になっています。ところが、Bパート部分は、現在形の呼びかけがメインです。

くれぐれも気を付けて できれば笑っていて
忘れたらそのままで 魂の望む方へ
僕もそうするからさ ちょっと時間かかりそうだけど
泣くたびに分かるんだよ ちっともひとりじゃなかった

この部分を聴くと、「僕は歌うよ/歩きながら/いつまで君に届くかな(同じドアをくぐれたら)」という一節を思い出します。くれぐれも気を付けて、できれば笑っていて。実際に別れの場面でも、こんな言葉を交わしたのかもしれませんが、個人的には、届くかどうかも分からないつぶやきを、詮方なく涙を流しながら心の中で繰り返してしまう主人公の姿を想像してしまいます。「できれば笑っていて」という願いが、自分にとって「ちょっと時間かかりそう」だなんて思ってしまうのは、きっと今彼がそこで涙しているからなのではないでしょうか。
しかしながら、その涙はただ悲嘆ばかりが詰まっているわけではありません。「泣くたびに分かるんだよ ちっともひとりじゃなかった」。最後のBパートで「君とさみしさはいつも一緒にいてくれていた 弱かった僕が見ようとしなかった所に居た そこからやってくる涙が何よりの証」と唄われますが、その様に、君がいることを実感するからこそ、「僕もそうするからさ」と強がりでも前を向けるわけです。この部分は、しっかり噛むとものすごく味が出てくる部分なんじゃないかなぁと思います。

曲を一通り聞くと、言葉一つ一つは強いけれども、全体として儚げで不安がちな印象を受けます。これがどういう気持ちで歌われているのかな、と考えを巡らした結果、「何も言えなかったこと」に対するやり切れない思いなのではないか、と言うのが今の僕の考え方です。

君と寂しさは きっと 一緒に現れた
間抜けな僕は 長い間分からなかった

“間抜けな僕”という自嘲のフレーズが、痛い位突き刺さってきます。

さよならした時 はじめてちゃんと見つめ合った
足りない言葉の ひとつひとつを抱きしめた
まっすぐなまなざし

真っ直ぐな眼差し・・・。この部分の余韻に“伝えきれなかった悔しさ”、そして、それでも構わないと思わせるような、絶妙な空気感を感じます。

何も言えなかったこと、本当に伝えたかったことを、唄に仮託して、唄い、聴く。届くはずの無い、誰かへ対する祈りは、一つの懺悔のようにすら響きます。

くれぐれも気を付けて できれば笑っていて
騙されても 疑っても 選んだことだけは信じて
笑われても迷っても 魂の望む方へ
思い出しても そのままで 心を痛めないで
君の生きる明日が好き その時隣に居なくても
言ったでしょう 言えるんだよ いつもひとりじゃなかった

一体、かれは、何を「言った」のか、そして「言える」のか。
私的には、「いつもひとりじゃなかった」、とくに「ひとりじゃなかった」の部分ですね。この唄はすべて回想で、実際の別れの場面には主人公はほとんど何も言えなかった、という本文の過程に戻ると、一回目のBパート部分で「ちっともひとりじゃなかった」と唄っているので、「言ったでしょう」にあてはまるのかなと思います。
また、いずれにしても「ちっともひとりじゃなかった」から「いつもひとりじゃなかった」へ変わっている点は見逃せません。逡巡を経て、過去の自分のことを遠いまなざしで、より確かに「ひとりじゃなかった」と言い切る強さを感じます。

追想としてしか語られない別れの場面を始まりにすえつつも、あくまで「時間とともに深まっていく相手への想い」に焦点を絞って唄われた唄。僕はグッドラックをそんな風に受け取りました。

追記:
余談ですが、

手と手を繋いだら いつか離れてしまうのかな
臆病な僕は いちいち考えてしまった

ここの部分は、作品中でひたすら唄われている「君」ではなく、新しい出会いの時に主人公が思ったことなんじゃないかなと考えています。別れの際に手を取り合うという感じだと「いつか離れてしまうのかな」って言葉は不似合いかなあとも思いますし。

起きてメシ食って寝て終了

どうもです。まーた更新滞ってしまいましたね。
そんな間にもゼロがリリースされ、新曲のグッドラックが発表され、バンプの皆さんが頑張っている間わたしは何をしていたのでしょうか!
そのうちのひとつに、就職活動がありました。10月まであったのか…。とてもつらかったのですが、自分としては期待と不安に胸躍らせています。いちおう、人に話を聴いて、それを文章にするおしごとをしてお金もらってく予定です。
そんな自分が就職活動中よく聴いていたのが、モーターサイクルという唄でした。

起きたら胸が痛かった 心とかじゃなく右側が
夜になったら直ってた 痛かったことも忘れてた

自分は肺気胸という病気を患っているのですが、それは左肺なんですよね…。
と、それはおいといて、「心とかじゃなく右側が」って歌詞がよいですね。淡々としたリズムトラックとも相まって、平常心を"装ってる”感じ。

さて、この曲に関して藤原さんは「死ぬほど嫌な事があって、その時に作った」とFujikiかなんかで書いていたように記憶しています。ぼかしぼかしで、果たしてその事件とは何だったのか、歌詞だけでは一つに断定することはできないですし、あんまりにもパーソナル過ぎて、あまりここで、冷静な文体で憶測するのははばかられる詞でもあります。
とはいえ、「ああ君には言ってない 相槌さえ望まない」と歌われたら、なんか返さないとシャクですよね。ざっくり自分のイメージを書いておくと、バイク事故とそれに集うマスコミや保険会社への苛立ち、みたいな感じでストーリーを描いてみたりしています。友人の自殺未遂だったのかもしれないですね。
抽象的な言葉でざっくりこの曲をいいあわわすと…安心のために費やしてきた時間、愉しみのために費やした時間、全部無駄に思えてしまって自暴自棄な日々に、ひとりでスネて逆恨みマジダセェ、ってところでしょうか。
レトリック面では、「何だってネタにする仕事 敏感と不感の使い分け」という自己言及、「心はまだ丈夫だぜ」「心に拍手を送るよ」から、「心臓はまだ脈を打つ 四の五の言わず飯食えよ」と変化するところ、"ああ外野はほっとけ"という言葉の配置の仕方、前述の「ああ君には言ってない 相槌さえ望まない」と明らかに分かり辛い歌詞で歌う所、ですかね。ホントに、自分に歌われてるのか、藤原基央の誰か友人に向けて歌ってるのか分かんないですね。でも、こういう唄をシングルで出してくれて、個人的には嬉しかったかなぁ?

いつもよりだいぶ投げっぱなしの記事ですが、こんなところでしょうか。

ウェザーリポート解釈

 バンプオブチキンといえば、「情景が思い浮かんでくるような物語的な歌詞で有名!」という風な事を良く言われますよね。ですが、COSMONAUTでは、宇宙飛行士への手紙や、R.I.P、66号線、モーターサイクルなどなど、なかなかその場の状況が描きづらい曲や、そもそもこれを単線的な物語として解釈すべきなのか、という歌詞が増えたような気がします。ウェザーリポートという曲に関してもなかなか特徴があり、確かに一つの物語がバックにあるという事は分かるものの、車輪の唄やKのように、少し読めば物語がすっと入ってくる、というものではなく、詞の物語再構成の解釈の段階で、人によって意見が分かれうるタイプの歌詞になっていると思われます。断片的な情景は浮かんでくるものの、全体としてどういう物語なのか曖昧、部分的によくわからないところがある…そういう方も多いのではないでしょうか。

 そこで、今回は僕自身の思うウェザーリポートという物語について書こうかなと思います。

雨上がり差したまんま 傘が一つ
決まり通り色を踏んで 濡らした紐靴
マンホールはセーフね 帰り道で
いつもどおり傘の中 笑顔が二つ

 小学生くらいの時、タイルの特定の色だけしか踏んじゃいけない、という決まりを定めて下校したこと、ありませんか。決まり以外のタイルを踏んだら「ぐっはー死んだー!w」とか盛り上がりながら。家の方面が一緒の二人は、最近よく降る雨のなかで、「傘は一つだけ、その中でいかに雨にぬれず、目標地点(=車屋の前の交差点)までの死亡回数スコアを減らしていけるか」という遊びに興じている・・・。そんな状況をこの唄の中では想定できます。
 <雨上がり差したまんま 傘が一つ>というのは、下校当初しきりに降っていた雨はもはや止んでいるにもかかわらず、水たまりを踏んで<濡らした紐靴>も気にせず、「傘一つ縛り」を定めたゲームを続行しているさまを表しているのでしょう。次の一歩に迷った二人が、どちらからともなく<マンホールはセーフね>なんて提案をして、<いつも通り傘の中 笑顔が二つ>、仲良く下校している・・・小気味良いビートを刻むリズム隊と、煌びやかなディレイサウンド、軽快に跳ねるような歌メロなどと相まって、この冒頭部分を聴いただけであれば、「幼い二人の密やかな幸せ」みたいな、幸福きわまりない状況を想像してしまうかもしれません。

何も言えないのは 何も言わないから
あんなことがあったのに笑うから

あなたのその呼吸が あなたの心はどうであれ
確かに続く今日を 悲しい程愛しく思う

 でも、今日の二人の笑顔には影がありました。学校ないし家庭で、<あんなこと>と歌われるような何かが起こってしまった。<あなた>に対して、何がしかの言葉をかけてあげたいと思いつつも<何も言えない>という状況について、「相手が<何も言わないから>、いつも通り<笑うから>」、と歌では“分析”、悪く言えば“弁明”されます(弁明、と私たちが意味付け/評価するためにはCメロでの転換が重要になるわけですが。後述。)。
 この事を踏まえると、先ほどのAメロの<いつも通り傘の中 笑顔が二つ>という部分の歌詞は、実はこういった気まずい状況の説明であったのだ、と意味づけることもできますね。

 <あなたのその呼吸が あなたの心はどうであれ 確かに続く今日を 悲しい程愛しく思う>という部分は、「ギルド」「オンリーロンリーグローリー」などでもよく使われている、<呼吸>というモチーフに焦点が当たり、バンプの詞を読んできた人であればあるほど、スッと入ってきて“しまいがち”である部分かなと思います。今回の場合も生命をメタに暗示しているということは言えるでしょう。<あんなこと>が、何か生命に関わることだったのではないか、と個人的には想像します。ですが、今回は「雨の降っていない日に、一つの傘の中に二人が入り、その状況で飛び跳ねている」という設定によって、<呼吸>がより生々しいものとしての意味を帯びているという点が重要になってきます。「embrace」*1でも描かれていた<呼吸>のねばっこい側面ではありますが、こちらは「灯りのない部屋」という状況設定が既にメタ的すぎるということもあり、「ウェザーリポート」の方がより<呼吸>の持つ身体性をリスナーに喚起しやすいものに仕上がっているでしょう。そして、このリアルさが、翻って“生命”というメタメッセージにより強い説得力を持たせるわけです。このあたりの巧みさに、藤原基央の詩人としての成長を見いだしたりすることも出来るかもしれません。

 で、2番です。

いつもより沈黙が 耳元で騒ぐ
次に出る言葉で 賭けをしてるような

 互いを思いやり合いすぎて、口数も減って来て、逆に気まずくなる。自分が放った言葉に対して、相手の<次に出る言葉>はどんなものになるだろうか、と探り合っている状況は、麻雀の牌の切り方やトランプの札を切る際に生じる心理戦そのものです。一つの傘の下、二人の顔の距離が限りなく近いという設定を再び思い出せば、<いつもより沈黙が 「耳元」で騒ぐ>というフレーズは、より生々しい情景を喚起してくれるでしょう。

夕焼けに差したまんま 傘が一つ
見慣れた横顔 初めて見たような

 じっくり時間をかけて生死を賭けた共同戦線を続ける<一つの傘>に、つきあいきれないと言った様子で沈みはじめた太陽が、赤い光を注ぐワンシーン。<見慣れた横顔>が<初めて見たような>ものとして映ったのは、彼女が抱える悩みのに加えて、この時の情景も大きく関わっている様に思ったりもします。こんなに近い距離で、夕焼けに染まった相手の顔を見る事は天気予報が外れなかったらありえなかったこと。普通に美しく、味わい深いカットだなぁと思います。

傷付いたその時を 近くで見ていた
この目の前でだって 笑おうとするから

あなたのその笑顔が 誰かの心を許すなら
せめて傘の内側は あなたを許してどうか見せて欲しい

 さて、ここは人によって解釈が分かれるところだと思うのですが、僕は<傷付いたその時>というのは<あんなこと>が発生した時でなく、傘遊びをしているまさにその時である、という風に解釈しています。理由は、そっちの方がおいしい話になる様な気がしまして。事件の現場に居れずに、話だけ人づてに聞いて、相手の方も自分の事が噂になっている事はなんとなくわかっていて、でもそのことを自分から話すのもなんだかなぁ…みたいな、絶妙な距離感というのが、今までの流れにも合っているように思われます。
 先にサビ部分の箇所を解釈しておいた方がよさそうですね。
 <あなたのその笑顔が 誰かの心を許すなら  せめて傘の内側で あなたを許してどうか見せて欲しい>という部分について、僕なりに整理すると、まず<あなた>は、被害者でありつつも加害者意識を持ってしまっている人間であると評価することができると思います。自分が被害に遭う一方で、自分の方にも罪を感じてしまっているが故に、怒りを加害者に向ける事ができない。おそらく、<あんなこと>が起こった時も、加害者=(歌い手の知らない<誰か>)に対して、自身の心は深く傷つきながら<笑顔>を向け<誰かの心を許>したのだと思います。そして、<この目の前でだって 笑おうとする>相手を傘の下で見たとき、「<あんなこと>が起こった時、こんな風に笑っていたんじゃないだろうか?」、と思い至ったからこそ、<傷付いたその時を 近くで見ていた>という風に捉えるに至ったのだと考えています。そして、ゆえに<せめて(自分が相手の)傘の内側は あなたを許して どうか見せて欲しい>と願ったのでしょうか。
 こうして、2番の歌詞の中で、<あなた>の<痛み>の片鱗を<笑顔>を通して垣間見ることとなります。そして、だからこそCメロで、その<痛み>に触れることに対して抱いていた恐怖に気付けた以下のような自己反省が続きます。

触れないのが思いやり そういう場合もあるけど
我ながら卑怯な言い訳 痛みを知るのがただ怖いだけ

 1番Bメロの頃に思った、<何も言えないのは 何も言わないから あんなことがあったのに笑うから>だなんて、自分を正当化するための欺瞞だった、<我ながら卑怯な言い訳>だったのだ、と。レトリックに関して言えば、Cメロを読んで初めて、<何も言わないから><あんなことがあったのに笑うから>という「理由付け」を、2回も続けて記述している理由に気付けるわけです。後半部分の気づきによって前半の部分が遡及的に意味付けを加えられ、結果的に詞全体が厚みを持つようになる…藤原基央が得意とするような、「唄」ならではのレトリック、ストーリーテリングですね。
 間奏をはさんで、いよいよ物語もクライマックスです。

最終下校時刻の チャイムが遠く
車屋の前の交差点で また明日じゃあね

 学校を出発して、時間も経てば、距離も相応に歩いてきた。<最終下校時刻の チャイムが遠く>というのが地味に上手い表現です。
 いつもの冒険の終わりの<車屋の前の交差点>で、今日の成果を反省して<また明日><じゃあね>。多分、二人は笑顔のままで、いつも通りに。

国道の川を渡って やっぱり振り向いたら
マンホールの上に立って 傘がくるくる

 ここもすごくいいシーンですよね。自分は<国道の川>というイメージを持って横断歩道を渡って、一方で相手は、<マンホールはセーフね>って事になっていた<マンホールの上に立って>いるという、ただそれだけのことなんだけれども、もう二人の共同作業は終わって、別々の通学路を歩き始めながらも、ゲームの続きを双方が続けているっていうその感じが…。
俯瞰的に言えばそういうシーンですけれども、自分がゲームを続けて<やっぱり振り向いたら>、マンホールの上に佇んで<傘>を<くるくる>させながらおんなじことをしていた相手を見たとき、彼に芽生えた感情を考えると、たまらなく切なくなります。そして、曲の中でも最も重要なのは、横断歩道についてはゲームが意識の上で続いていても、外見上はその意識は表出される事はありませんが、傘については、晴れている今、二人のゲームが終わったら、さしたまんまにする必要性は全くない、にもかかわらず<くるくる>させていたという事。つまりは…*2

あなたのあの笑顔が あなたの心を隠してた
あの傘の向こう側は きっとそうだ信号は赤
あなたのその呼吸が あなたを何度責めたでしょう
それでも続く今日を 笑う前に抱きしめて欲しい 抱きしめに行こう

 <傘がくるくる>からここまでに関して、もう、「いいなぁ・・・」と嘆息をもらすことしかできないのですが、傘の内側から出て遠く「外側」に立ち、ひるがえって傘が二人の表情を分かつ存在になった時に初めて、<あの傘の向こう側は… きっとそう(=本当は心のどこかで何かを待っている状態)だ>、という確信を持てるようになった、という逆説的な事態が起こっているということはかろうじて示しておきたいです。傘をたたまなかったのが意図的なのかどうかはおいておいて、その姿を見てしっかりとかれが「気付き」を得られた、というところも注目したいところです。そして、今自分が渡っている横断歩道の上から、相手の<信号は赤>という事を確認して、<抱きしめに行こう>と駆けだす…。
 音源においては、<傘がくるくる>のあと、演奏全体のボリュームが減衰していき、一瞬全て止まったのち、堰を切った様に、<あなたのあの笑顔が あなたの心を隠してた あの傘の向こう側は きっとそうだ〜・・・>とラストのサビへと続きますよね。この一連の流れの中で、傘がまださされたままであることへの違和感、そしてその理由に気付いた瞬間の、溢れださんばかりの感情が、100%表現されています。僕自身、電車の中で曲を聴いていて、ここに気付いたときは泣きそうなくらい駆けだしたくなりましたし笑! 何が<きっとそう>なのか、言い切らないところとかもすごく、いいです…。と、僕はそういう風にこの部分を解釈しています。
 どうやらこの部分は結構解釈が分かれるところのようで、<傘がくるくる>という部分を、相手が自殺をしようとして、それにはねられたとき傘が宙に舞っている様を表現したものと解釈している人もいるみたいです。なるほど、この明るい曲調で、その様な絶望的な事件が起こってしまった、そしてそれについて後悔をする主人公、というのは、なかなかにドラマチックなシーンでありますね。その後の繋がり方とかはどうかなと思う部分もありますが、いち解釈の可能性としてはなくはないと言っておきたいと思います。

車屋の前の交差点で ショーウィンドウに写る
相合傘ひとりぼっち それを抱きしめた 自分で抱きしめた

 そしてここも解釈が割れているというか、様々にありますねぇ。
 自分が抱きしめに行ったのか、それとも相手が自分で自分を抱きしめたのかというのが主な違いかなと思われます。 
 自分に関しては、今までつらつらと述べてきた解釈の上で、<それを抱きしめた 自分で抱きしめた>=「相手を抱きしめた 主人公が抱きしめた」という風に解釈しました。
 ここの部分が分かり辛くなっている理由として、<それを抱きしめた 自分で抱きしめた>の<それ>と<自分>が誰なのかが分かり辛い、という事が原因であると思われます。これまでの流れで行けば(長くてスイマセン…)、主人公自身が抱きしめに行く、という解釈に行きつくのは自然という風に考えて頂けると思います。そういった全体的な文脈に加えて、この一番最後の歌の部分だけボーカルに対してダブリング(歌が二重に重なってる)エフェクトとコーラスと強いコンプレッションがかかっていて…要するに他の歌の部分と非常にことなったエフェクトがかかっていることについて、<車屋の前の交差点で ショーウィンドウに写る >という歌詞もあり、これまでの「視点」が、ガラッと変わっているものとみなせるのではないか、というのも理由の一つです。主人公が抱きしめに行ったという解釈だと、あえて<「自分で」抱きしめた>と書くのは変かなぁとは思ったのですが、最後の部分までの歌詞が、ほぼ一人称に近い形で歌われていたのに対して、この部分は明らかに第三者の視点で歌われているとみなすことができるので、2サビのラストでも<笑う前に抱きしめて欲しい>と歌っているということもあって、単純に<自分>=主人公自身を強調するための表現と見ていいんじゃないかなぁ。
かくて、後ろから相手を抱きしめる主人公が優しくもきつく相手を抱きしめる姿を、<ショーウィンドウに映>す事によって、奥行きと余韻のあるラストシーンを演出しようとしてこういう表現になったのかなと思っています。
こういう感じで行くと、<相合傘一人ぼっち>という表現は、「<傘がくるくる>を<あの傘の向こう側は きっとそう(本当は何かを心のどこかで待っている状態)だ>と少年が解釈した」という解釈(ややこしいw)を裏付けるものになってくれるのかな。言葉で伝える事ができなかったことに対して、「抱きしめる」という解答で物語は幕を閉じたのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 とまあ長くなりましたが、こういう感じで「ウェザーリポート」は解釈しています。
 クライマックス部分の、<傘がくるくる>からの部分が特に素晴らしいですね。ここについて書くのを我慢するという意味で、「ウェザーリポート」について書かないままでいたのですが、半年も経てばもういいかなってことで。この類の仕掛けは他の曲にもいくつか眠っているように思っているのですが、「ウェザーリポート」の場合だと「あの傘の向こう側は…きっとそうだ…」の理屈に聴き手が気付いた瞬間、その聴き手は主人公になって物語により入り込むことができるという「仕掛け」になっているんですね(、と自分で勝手に思っている)。ドラマチックかつ文学的情緒が溢れる物語の中で、ミステリ的な仕掛けと論理性が遺憾なく発揮されているわけですが、これをポップソングの領域でやっている点*3には本当に脱帽します。以上、「ウェザーリポート」解釈でした。

追記:
言い忘れてた!メーデーという曲の筋書きと非常に似通っているウェザーリポートという歌ですが、個人的にはメーデーの場合あまりに詞が抽象的すぎるなぁと思ったことがありました、誰にも存在していたかもしれない幼少期の体験を土台にして具体的な物語に落とし込んでいるという点も、COSMONAUTの3曲目として、非常に重要だと思ってます。自分の中でorbital periodは理論であり、エンディングトラックの涙のふるさとで自らの過去・記憶と向き合う、という決意がなされたのち、cosmonautにおいて実践を行う、という位置付けを勝手にしているのですが、R.I.P、透明飛行船などと同列に、このウェザーリポートを評価することもできるでしょう。
あと、需要あるか分からないし、かつて無い黒歴史になりそうですが、ウェザーリポートで掌編〜短編小説書きたいなとか思ってたりしますw

*1:「抱きしめる」という最終解答も含め、実はこの「embrace」という曲との親和性はとても高い

*2:言わせんな恥ずかしい!

*3:あるいは「歌」だからこそできたことかもしれません

生き残ったあなたへ

【期間限定盤】Smile(DVD付)

【期間限定盤】Smile(DVD付)

4月中旬よりソフトバンク社の復興支援ポータルサイトのCMソングとして井上雄彦氏とコラボレートされている「smile」に関して、制作の細かい経緯などは他のサイトで説明されているので割愛しますが、いつも通り歌詞について思う事を述べます。

まず、すこし前の記事になりますが、以下のはてな匿名ダイアリーを参照します。
頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。

すげぇ言われてるんだけど、CMとかで、頑張れ頑張れとか。
ちょっと気を許すと、「一緒に頑張ろう!1人じゃない!」とか言うわけ。
いや、おまえら家あるじゃん?そのCM撮ったら家帰ってるじゃんって。
仕事もあるじゃんって。

毎晩、うなされるし、夜いつまでも眠れない。
流された人を何人も見た。
顔見知りも流された。
その頭にある映像を何回も思い出す。
そのたび、津波がこうくるって分かってたら、あの人を助けられたかも、とか。
時間が戻せたら、隣のおばあちゃんちに寄ってあげたかった、とか。
1人でも助けて英雄みたくなったら、まだやる気が起きたかな、とか。
俺、1人で逃げてきたわけ。
誰も助けなかった。おばちゃんとか、何人も追い抜いて逃げた。重そうなもの持ってる人とかもいたのに。
もう100万回くらい、100通りくらい後悔している。

福島に住む兄に電話をした増田は、彼に上記の様な話をされます。あくまで増田は一例ですが、こういった怨嗟や後悔の想いを抱える方は少なくないはずです。そんな彼らに対して、どういった歌が響くのか。この問いを常に念頭に置きつつBUMP OF CHICKENが慎重に回答したのが、徹頭徹尾"あなたがまだそこにいること"が歌われてゆくだけの「smile」という楽曲なのではないかと考えています。

心の場所を忘れた時は
鏡の中に探しにいくよ
ああ ああ
映った人に尋ねるよ

もう聴かれた方はご存じだと思いますが、この出だしに始まり、楽曲はずっとこの構成のまま展開していきます。そこではひたすら「映った人」とその今と過去だけが歌われています。「あなたはひとりじゃない」。そのようなメッセージをこの曲から読み取ることもできますが、それは広告で頻繁にするモチーフとは全く意味合いの違うものです。寧ろ、"ひとりじゃない"というメッセージがどれだけ有効であるのか、そもそも彼らが"ひとり"であるかどうかなど本来的には問題ではないのではないか、という問いかけを種々のメディアや市民に投げかけるかのような態度が感じられました。
「心」の場所を見つけ直すのに鏡という「身体」だけを映す鏡が力を発揮するというのは、一見すると逆説的に見えるかもしれません。しかし、絶望的な事態に遭遇し、生が脅かされ、それでも生きているその具体的な身体に再び遭遇するということほど安堵をもたらすものは無いのではないでしょうか。そのとき、「ひとりじゃない!」と居丈高に叫ばれるたびに孤独や疎外感に追いやられていた心は、ひとまず「ひとりでも、そんなことは問題ではない」と心の場所を取り戻せるのではないか―――。

そのメッセージを前提として、歌をより"届く"ものにすべく、切実な状況が中盤以降で描かれます。

大事なものが大事だった事
赤く腫れた目 掠れた声
ああ ああ
映った人は知っているよ

まだ見える事 まだ聞こえる事
涙が出る事 お腹が減る事
ああ ああ
映った人が守ったよ

あなたにどれだけ憎まれようと
疑われようと 遠ざけられようと
ああ ああ
映った人は味方だよ

大事な人が大事だった事
言いたかった事 言えなかった事
ああ ああ
映った人と一緒にいるよ

ここで、BUMP OF CHICKENを聴いてきた方なら、どのモチーフもこれまで彼らが歌ってきたこととなんら変わりのないものであると気付くと思います。supernovaに描かれた喪失と出会い、R.I.Pに言い含められていた死者への負い目、お腹が空いても歌い続けたガラスの猫…。何もかも失ってもその身体はまだそこにあることを、非常事態だから、と急に畏まったりはせず、軸をぶれさせることなく伝わることのみが願われています。
また、上記までの部分の詞において、アーティストからの提案や励ましの言葉のようなものはなく、ただただ鏡をのぞきこんだ彼を浮かび上がらせる情景を描いているのみです。これまでも、滅多に「一緒に〜しよう」とは歌ってこなかった彼らであり、そのスタンスは一切崩れていません。

ミュージシャンや「一般の市民」の活動において、増田の兄も言う様に、何を歌っても活動してもそれはあくまで安全地帯からのものであり、具体的な被害を体験しえていないという点で決定的に断絶しているという事実は厳然としてあります。それでも、ずっと生や喪失について歌い続け、他者に歌うという事の意味をその都度考え続けてきた彼らならば、押しつけがましさなくこの歌を届けることが出来るのではないかと信じています。

ただ一つ、彼らの勝手な願いが込められた部分があるとすれば、楽曲の一番最後の詞、

映った人に 微笑むよ

という箇所でしょう。
「smile」が多くの人の力になることを祈って。

東北関東大震災によせて


めったに社会的なアクションを起こしたりしない彼(ら)から届けられた一曲について。

この日に奏でられた「ガラスのブルース」はいろんな捉え方、響き方を生んだ歌になったという事をまず確認しないといけない。
でもどの立場にある人にとっても共通して届いたメッセージは、
「そこに藤原基央が居る」
ということ。
これだけは揺るぎないと思う。
逆に、僕自身にとってはそれ以外には何もないのかもしれない。

たとえば、直接被災に遭ってしまって、今もまだ住む場所や食糧の少なさに喘いでいる人たちにとっては、この「ガラスの目をした猫」の一挙一動が励みになるのかもしれない。
けれど、それを僕自身が想像することは邪推に他ならないし、そういった彼ら(藤原基央と被災地の聴き手)の間のやりとりを想像し、そこに美しさの様なものを見い出し快楽に浸ってしまうこと、浸ってしまったことは、強く恥じなくてはいけないことだと思っている。

それでも、「このガラスのブルースという歌は、いつか僕自身がとんでもない苦難に襲われた時きっと力になってくれる、という確信が生まれた」「まだそこにいる彼に会いたいと思った」と書き記すことはかろうじて許されると思う。

これを読んでくれてる皆さんは、どう感じましたか?