車輪の悲鳴

今回は「車輪の唄」の文学的な側面について述べようと思います。


「錆付いた車輪 悲鳴を上げ」

という箇所は詩の中で全部で三回用いられていますが、まずその場面・状況によって出ている悲鳴(音)がどれも全く違っていますよね。

最初の箇所は、線路沿いの上り坂で、2人乗りをしています。重いペダルを漕いでいる。

盛り上がり所の二度目の場面では、彼は線路沿いの下り坂を風よりも早く、走っています。

一番最後の悲鳴は、彼は一人で、(ここは推測ですが)ゆっくり自転車を漕いでいるでしょう。

出ている「音」が明らかに違いますよね。僕が言うまでもなく(というか言わない方が良いですね)誰にとってもその違いは分かる事と思います。そしてそのそれぞれ違う音が、微妙に移り変わる主人公の気持ちを繊細に描写している訳です。(あと、一応言っておくと彼は最初から辛い気持ちだったのではないかと僕は思います。僕も、「喜び」は無きにしもあらずとは思っていましたが、それもまた彼を更に複雑な気持ちにさせたと考えています。)

更に言えば、「僕」は恐らくこの物語中では殆ど喋っておらず(と思われ、とすればそのどちらも小さな呟きです)この事実から彼がそういう性格であることが推察出来ますが、そういった設定もまた「車輪の悲鳴」をより一層効果的に響かせる事に成功しているのではないかと思われます。代弁というか。

最初聴いた時はリリィなんかと比べると淡白な感じ(特に登場人物が)の詞だなーと思っていたのですが、よくよく読んでいくと「僕」や「君」のキャラクターが至る箇所で描写されて居る事に気付き、彼らの性格も細かい所まで掴めるようになっていくと思います。こういう詞世界は以前の作品とはまた違った感じで「こういうことが出来るようになったんだなあ」と感心しました。その、描写の「密度」で言ったら本当に文芸の域に達したなと思います。

簡単な詞かと最初思っていたんですが、実は技巧の詰まっている曲でした。