6/22日の記事について

プレゼント、「嫌いだ 全部 好きなのに」についてに対して、以下のようなコメントをいただきました。

通りすがり 2008/07/11 22:06
素直に聴けば、「嫌いだ 全部 好きなのに」の「全部」は、自分の全部とは考え難いかと思います。自分と考えるより君のと考える方が自然だと思います。

うーん、まず「素直に聴けば」というのが、なんかまるで俺が穿った解釈を狙うやつみたいに思われてるようで、ちょっっっっぴりへこむ。視聴機の前で初めて聴いた時からこの考えが有力だったので、そういう意味では素直に聴いて出てきた解釈ではあります。実は当時の自分自身の心境というか考えてたことがまさにこういう感じで、だからこの解釈に流れていった面もあるでしょう。ただ理屈付けしてここに載せる段階でちょっといびつになったかとは思う。
では通りすがりさんの考えについて僕もひとつコメントします。「君」というのは、「プレゼント」中で「ずいぶん赤い目をしてる」人のことですよね。でも、こういう目をした人に対して、「嫌いだ!」とか、しかも初対面で、言ってしまうのは、いくらそのあと「(君の)全部 好きなのに」とフォローするにしても、危なすぎると、素朴に思うのですが、どうでしょう。。

「全部」=「自分が関与してきた物・事・人」とかも考えてる

リリースから1ヶ月経って、どうも「全部」が「自分の全部」っていう意見は少ないようで、「全部」は「世界全部」とみなす意見が多数派なのかな、と言う感じがします。「世界全部」というか、自分が関与してきた物・事・人、ってなところ?「環境」とでもいえるかな。そんな個人的なものを「世界全部」と言ってしまうのは乱暴かもしれないが、人一人の世界がそういう個人的な出会いで支えられてるというのはsupernovaでも「誰かの世界はそれがあって作られる」と歌われているところです。この「自分が関与してきた物・事・人」というのは、ギルドでいうなら「思い出したんだ 色んなことを」の「色んなこと」、「向きかえるかな たくさんの眩しさと」の眩しさにあたるのかな。

要は何を原因とするか、力点のちがいではないか

実は個人的に「全部」=「自分が関与してきた物・事・人」に傾きぎみなのですが、それでも「全部」=「自分の全部」という解釈を捨てきれない気持ちもあるのです。
ギルドで、

汚れちゃったのはどっちだ 世界自分の方か

とある。世界が自分に無茶な適応を強いるのか、自分が世界に甘すぎる期待をしてるだけなのか、という問いを発してる部分です。
で、プレゼントでは、

世界に誰もいない気がした夜があって
自分がいない気分に浸った朝があって
目は閉じてるほうが楽 夢だけ見ればいい
口も閉じれば 呆れる嘘は聞かずに済む

一応この部分が「壁を作った」経緯の部分になっているんだけど、そこに世界自分が並列されて挙げられてる所が非常に引っかかる(ちなみに、「世界」と「実存」がOPのテーマと、わたしは標榜してます)。彼が「扉」と「壁」を作った理由について考える時、それが「(現実)世界の厳しさ」から来てるのか「自分の弱さ」から来てるのかは、必ずしもどちらと言い切ることは難しいでしょう。さっき引用したギルドの歌詞もそのことについて歌っているのです。

そういったことをふまえて、

壁だけでいい所に わざわざ扉作ったんだよ
嫌いだ 全部 好きなのに

をみてみると、素朴に、
「全部」=「世界」が理解しうる解釈であるのと同様に
「全部」=「自分」も十分考えられる解釈であるという気がしてくるのです。

(うーむしかしなにか重大な点を見落としているような・・・。)


とりあえず、それでも「全部」=「世界」解釈に傾いているのは、そのあと「君はまだ君自身をちゃんと見てあげてないだけ」との関連について、「世界へ向かい合いきれないのは君自身をちゃんと見ていないから」のほうが「自分を愛しきれないのは君自身をちゃんと見ていないから」よりもその後の「これから何をするんだい?」に繋がるからです。まあそのまんまみてもちょっと後者は変だわな。

結局あまりまとまりませんでしたがこんなところでご勘弁を。大学生はこれからがテスト・課題本番なんだぜ・・・!