結局「ギルド」は加藤を助けらんなかったわけだよなー

そんな当たり前のことをタイトルにしても。6月8日の秋葉原での連続通り魔事件の実行犯が、bbsにギルドの一部を抜粋して書き込んだという件について。


書き込み、事件発生からもう2ヶ月が経つ。*1事件にコメントすること自体がいまさらだし、その中でも、掲示板の数千の書き込みの中から2レスだけピックして考えを連ねることが事件自体にどれだけ意味あることなのかは分からない。ていうか事件に関してははっきり言って、ない。意味があるとすれば、引用された側について。その意味を僕が語ろうとすれば、必然的にバンプオブチキンという物語の中にあのむごい事件を回収するということになる。すなわち、社会とバンプを関連付けて話すことになる。今まで敢えて避けてきた話題だ。そして今回はその蛮行(事件に対しても、バンプに対しても)を為す。歌詞全編と加藤智大を全面的に照らし合わせて検証することは、誰が聴いても少し想像力を働かせれば簡単に結び付けられることだし、いちいちやるにはあまりにベタすぎるし表層しか扱えないので、しない。曲と彼の共通性的なものは、前提として話を進める。


以下が彼が「ギルド」を引用した部分だ。

[2479]
06/05 06:47
美しくなんかなくて
優しくもできなくて
それでも呼吸が続くことは許されるだろうか
[2480]
06/05 06:49
きた
のった
[2481]
06/05 06:50
やっぱり時期的に限界か
[2482]
06/05 06:54
お前らは明日がきてほしいか?
来てほしいだろ
幸せだもんな
[2483]
06/05 06:56
その場しのぎで笑って
鏡の前で泣いて
当たり前だろ
隠してるから気づかれないんだよ

ネットで事件について語る人のうちで、「ギルド」引用部分を加藤智大自身が考えた言葉と勘違いしているような人もいた。そんなに引用部分は掲示板のレスの流れに沿っていたのだろうか。ちなみに、引用の30分前は、このような流れだった。

[2463]
06/05 06:17
作業場行ったらツナギが無かった
辞めろってか
わかったよ

「作業場行ったらツナギが無かった」ことを自分が職場の仕事仲間から疎外されていることと解釈した彼は、異常に腹を立てて、その日の仕事を放棄して帰宅しようとした。帰りの電車待ち、電車内で打ったのが引用部分、それは職場の仕事仲間からの着信を浴びている時間帯のことだった。帰宅後、

[2613]
06/05 18:57
どうせすぐに裏切られる
嫌われるよりなら他人のままがいい
[2614]
06/05 18:57
俺には支えてくれる人なんか居ないんだから
[2615]
06/05 18:59
一歩踏み出したら、あとはいくだけ
[2616]
06/05 19:02
とりあえず、明日は頑張ってみるよ
[2617]
06/05 19:03
いや、仕事にはもう行かないけど
忙しくなりそうだ

とレスして、就寝、翌日、事件で使われたナイフを購入しに行くことになる。

BUMPの一つのスタンスとして、「手を差し伸べ続ける、取るか取らないかは君の自由」というものがあった。僕らはあくまで手を差し出すだけで、能動的に動かなくちゃいけないのは君のほう、でももしも手を伸ばしてくれるんだったらいつでも助けになるよ。「メロディフラッグ」の詞中にでてくるものでもあるし、ユグドラシル期のインタビューではそれをキャッチボール中の大暴投になぞらえてさえいる。曲がすごいんじゃなくて、そこから元気を引き出した君のほうがすごいです、みたいなことも言っていた。こんなスタンスを確認するまでもなく、常識的に考えてバンプが今回の事件で嗤われ忌避される言われはない。

でも一つの事実として、「ギルド」は加藤智大を助けきれなかったというのは、ある。加藤は加害者だろうに、「加藤智大を助けきれなかった」なんて目茶苦茶な表現をしているとは自分でも思う。だが、彼にとって今回の事件は自暴自棄の”自殺”としての意味合いもあったはずだ。計画的に、かつ複数の人間を意図的に殺せば死刑は確実なわけで、彼の一番の目的が自分の死でなかったにしても「死んでも構わないや」という心情は彼の中にあっただろう。それは、引用部分である2サビが終わり、間奏を経たのちの「構わないから その姿で 生きるべきなんだよ*2」という願いが結果的に無効だったことに等しい。
結果として「気が狂うほどまともな日常」の中で生きる彼は、秋葉原のあの「非日常」をもたらした。
加藤の引用がたんなる思いつきの恣意的なものにすぎないとみることもできる。でも、4年近く前に発表されたアルバムの、しかもシングルカットもされていない曲の歌詞が、部分的であるにせよ一字として間違うことなく引用されたことを考えれば、そのひらめきは引用者の楽曲に対する一定の親密感に支えられていると考えるほかない。さして好きでもない曲が、いくら自分の状況に合っているからいって、ぱっと思いつくわけはないだろう。いわんやこんな切羽詰まった状況、その楽曲が身体に刻まれていなければ。そしてその親密感は、彼が「ギルド」という曲を初めて聴いてから今回の引用に至るまで、曲と自身をふれあわせてきた経験に由来するだろう。その経験の過程で、

愛されたくて吠えて 愛されることに怯えて 
逃げ込んだ檻 その隙間から引きずりだしてやる
汚れたって受け止めろ 世界は自分のモンだ
構わないからその姿で生きるべきなんだよ
それが全て 気が狂うほどまともな日常

と励まされてきたことも十分に想定しうる。それまで状況描写あるいは独り言に徹してきたかにみえた歌い手の姿が、あたかも一気に眼前に開けてくるかのような箇所だ。
加藤智大が「ギルド」に対してどれほど深い思い入れがあったのか、具体的に知ることは不可能だ。でも、少なくとも「浅からぬ」感情を抱いていたとは言えるのではないか。単なる文章の引用と違って歌詞の引用とはメロディーの引用を含みうる。すなわち、感情的な側面が強い。映像は場面を描き、言葉は観念を描き、音楽は感情を描くという図式において、歌詞の引用とは言葉と音楽の間に位置する。だから他のレスとは少し性質が違うのは当たり前で、それが今回この部分にスポットライトをあてたことの正当性にもつながるかもと今思ったが、話がそれた。
加藤は、「ギルド」という楽曲に浅からぬ思い入れを抱き、励まされてきた(この「励まされてきた」という表現は、必ずしも「加藤が前向きになってきた」ということを意味するわけではない。彼の感情がどうこうというより、むしろ、バンプの側がそういう励ましにあたる行為をしてきた、ということに力点が置かれる)。それは「いずれにせよその瞳は開けるべき」で「構わないからその姿で生きるべき」という歌だ。ささやかな救いであったかもしれない。だがそれは、結果としては届ききらなかった。
掲示板には以下のような書き込みもあった。

[2760]
06/06 09:33
こんなメールが来た
>ネガティブな言葉は使わない方がいいと思うょ
面白くなくても☆笑顔を作ったり☆願いや希望を常に想い続けたり☆ポジティブに過ごすほうが☆ずっと楽に生活できるはずだょo(^-^)o
難しいかもしれないけど頑張ってね〜(^_-)-☆
[2761]
06/06 09:36
いちいちごもっともなんだけど、それに疲れたの
幸せ者にはわからないだろうけど

「悲しいんじゃなくて疲れただけ」というギルドのフレーズが思い浮かんでしまうところでもあるが、いわゆる「励ましメール」に対して、加藤がシニカルに言及している。おそらく女性だろうこのメールを送信した人が、この書き込みを見たらどう思うか。常識的に考えて「関係ない」と思うか。あるいは「あたしはちゃんと励ましたし」と自己弁護するか。あるいは、言葉もなく思い悩むか。そんなのは分かるはずもない。
しかし、責任云々に関わらず、「止められなかった」ということは事実として確かに残る。この「止められなかった」事実に対してどういう感情を抱くのか。
この「励ましメール」と同じようなことが「ギルド」にも言える。ちなみに言うと、この事実は一般の誰にも当てはまることで、僕自身にも「責任はないが止められなかった」という言い方は当然出来る。
加藤がギルドを引用したことについて、その時彼が何を考えていたのかはわからない。ちょっとぴったしのいいフレーズ思い出した、俺気が利いてるな、ちょっとでも俺に共感してもらうために使ってやろう。生きるべきなんだよ。不細工に生まれてさえなければ。愛されたくて吠えて愛されることに怯えて。それでも皆が俺に檻に入ってろってさ、不細工だから。汚れてんのは全部俺の方。生きるべきなわけがない。
分からないはずなのに、こんな暴力的で無意味な妄想をどれだけしたか。2ヶ所目の引用を終えてから次の書き込みまでの4分間、実際は2分間、その時何を考えていただろう。確かなことは、彼が引用した俺の大好きなあのフレーズが、「ツナギ事件」の直後の、すてばちな精神状態の彼の頭の中で流れてたってことだけだけれど。
個人的には、やる瀬のない感情が残った事件だった。


―――――
いまセットリストを確認したら、RIJFではギルドを演奏したみたいだ。そのブログではたまたま、ギルドは予想外だった、みたいなことが書かれていた。うーん、さすがに事件と結び付けるのは邪推か。
なぜここまで今回の件について考えたかというと、fujikiでこんな回があったのがすごく印象に残っていたというのがある。
ファンからの「ライブ感動しました バンプが好きな人に悪い人いませんよね!」的な内容のレターに応じて、
「ライブに来てくれてありがとう.そしてごめんね 悪い人がいないなんて思いません。良い人しかいないなんて思いたくもありません あなたがもし今後人を殺すだのだますだのして、自分で自分を悪い人だと思ってしまっても、ライブに来てほしいです.CDを聴いてもらいたいです.「今後」ではなく「現在」すでにそういう「悪い人」なお客さんもいるかもしれない.そんな人に「君は悪くない」なんて、何も知らない僕には言えない.だけど.ありがとう.アンタの善悪なんてどうでもいい.ライブに来てくれて、CDを聴いてくれて.ありがとう.僕に必要なのは「良い人」じゃなくて「聴いてくれる人」です.」
と書いていた。これはorbital period発売前のツアーでのことだけど、このころから今みたくコミュニケーション志向で行こうと考えてたんだろうな。個人主義的なスタンスは変わっていないんだろうけど、ユグドラシルが出たころと比べて人とのつながりを歌った歌が多い。さらに進んで射程を集団にすら設定している。ライブの歌詞変えでも、アリーナなりホールなりライブハウスなりを一つの包摂の場として見て、「僕ら」という表現をやたらとつかっている。CDでは「僕」と「君」、ライブでは「集団」を想定した表現をして、使い分けている。もちろん基礎となるのはミクロな承認だけれども、マクロな包摂の持つ力っていうのも意識しはじめたのだと思う。承認の重要性はおそらくファンレターでそういうメッセージがたくさん届くから、まあ承認というか、繋がりたいという趣旨のメッセージが。で、包摂性に関してはスクールオブロックの経験も大きいんじゃないだろうかと考える。ラジオって内省的でありつつも発信者と受信者間の関係の他に受信者間のつながりも強く感じさせるメディアで、藤原先生の講義の最終回はその意味でミクロな承認とマクロな包摂を同時になしえちゃうようなそういうコンテンツだったように思える。その半面で、包摂が酷薄な排除をもたらすこともあるのだけれど…。
排除だったかどうかは別として、今回はバンプ、というより、ギルドの持つこの承認と包摂に加藤智大は留まることができなかった。でも、ありそうもない話ではあるが、そこで引きとどまる可能性は、0ではなかったと…思う。客観的に見て彼のおかれていた状況を考えると限りなく0に近いけど、卑近な例でいえばもし彼がバンプ自体に興味があったのなら、10日待って新曲を聴いてからにするとか…。
これも分かるはずのないことだけれど、そして知る必要のないことだけど、バンプはこの件をどういう風に受け止めたんだろうか。意図せずして、社会問題と微かに接触してしまったギルドという曲。
Orbital period が出てからわりとすぐ、鹿野淳が提言していたことだけど、僕も同じことを考えていた。「ハンマーソングと痛みの塔」のシングルカットだ。実は1stアルバムのころから社会的なマッチョイズムは強かった。ノーヒットノーランとかナイフは特にそういう社会的文脈で読み替えることが可能だし、くだらない唄はマッチョの対極だが、そのナイーブさがかえってマッチョを弱い男の子たちに対して開かれたものにすることができるだろう。
一周回って手に入れた表現のスキルを携えて、大いに臆しながらもう一度外に向かって走り出すという選択肢。その方面での期待が僕は一番強い。

*1:書き込みおよびまとめについては2008年6月8日に秋葉原で発生した通り魔事件 まとめwikiを参照。

*2:ライブのアレンジでは「生き延びてくれよ」と、願いとしてをより直接的に訴えかける表現になる