女の子と弱い男の子のための唄

「老」「若」「男」「女」によって、歌の響き方(=享受形式)は異なる。もちろんバンプに限ったことではないが、今回男子と女子の享受形式の差異について思うところがあったので書き留めておく。
ここでの「響き方が違う」ということはどういうことか。一言で言えば主体か客体であるか、という差である。
具体的に「メーデー」に即して考えてみよう。
メーデー」の流れを概略すると次のようになる。
「僕に嫌われた僕」を沈めたままにしている「僕」が、「僕」と同じように「君に嫌われた君」を沈めている「君」と対峙し、互いの沈めた自己を相互に承認する物語。
ここでの登場人物は、沈められた部分を除くならば二人、「僕」と「君」である。
ふつう「僕」とは男性が自分のことを指すときに使われる代名詞であるから、「僕」は「男(の子)」だろう。では「君」の性別は?「手を繋ないだら」「口付け」などはある種の比喩であるにせよ、やはり一般的に、無意識のうちに、男女の間で交わされる営みであり、無意識のうちに「メーデー」に男/女の図式を当てはめるのがふつうであると思う。
とするならば、男の子は「僕」のほうに自己を投影し、女の子は「君」のほうに自己を投影するのが普通だろう。天体観測やスノースマイルは、物語としての自己完結性がメーデーと比べて強いため、このような差異はあまり現れないのかもしれないが、メーデーに関しては、というかユグドラシル以降の楽曲に関しては、より作者と聞き手の直接的なコミニュケーションツールとしての性格が高まっており、このような投影をさせるのがバンプの狙いであるかのようにすら思える。(もちろんメーデを物語の外部に立って、自分を重ねたりせずに眺めることも可能で、まあ「普通の男の子」はこういう見方をするんだろうなと思う)。
これは僕が最初「涙のふるさと」に一抹の拒絶感を抱いたことと通じている(ちなみにメーデーにも感じた)。涙のふるさとの「彼も見てきた空」という部分にくると、どうしても「君」が女の子のように思えてしまうのである。「俺もずっと待ってるよ」の歌い方も、なんとなく女の子に向かって歌いかけているようにも感じられた。「彼」に関してはべつに男が男のことを待っていてもいいわけだし(とはいえ、君が男であるか女であるかは詩のないようについて大きく影響をもつところではある)、全体としてこの曲が「若」を想定して作られたものだと理解してしまえばフェミニンさもなんとなく理解できる。小さなころは男の子も女の子も優しい言葉遣いで保育資産に育てられたろう。それと同じ感じである。
また、ハンマーソングと痛みの塔においてもこの傾向は顕著である。ここでははっきりと傷みの塔に登っているのが「女の子」であることとが明示されている。

そうか私は特別なんだ

「私」である。もちろん日常的には男性が「私」ということもあるが、ここでは明らかに女性がその使い手=物語の主人公であるということが想定されていよう。しかし自傷的な女性がこの曲の主人公だとすれば、男の子は完全に阻害されているかというとそうでもない。より直接的に歌われている、風刺されている、と感じるのはある種の女の子であろうが、男の子も物語の語彙部に経ちながらもなお、風刺されている、すなわち「私」に自己を投影するものは少なくないだろう。男の子の中の女々しい部分―弱い男の子の「僕」の心にちくりとしてものが刺さる。
メーデーに立ち戻る。男の子は「君」と「僕」のどちらに心をゆだねるのか。あるいは外部からの物語の鑑賞者として間接的に意味を享受するのか。女の子は(特に熱狂的なファンは)「君」の側その立ち居地を限定されよう。「メーデー」という曲を聴いて、「藤君はいつもあたしに手を差し伸べてくれる…」。社会的な文脈でなく歌詞それ自体を相互浸透の媒介としているものの、典型的な歌い手と聴衆の相互浸透の形が成立する。
しかしこれに対して男の子はずいぶんと開かれた可能性を持っているように思える。それはきっと、手を差し伸べる「僕」としての、おんなじように沈めた自分をもち救難信号を発する「君」としての、そして物語の作り手として、常に自己を相対化し物語の外部にありながら内部をありのままに体験する「作者」としての『藤原基夫』に自己を投影するところが多いからであろう。
一応自分は性別は男なんですが、こういう悩みを持っているというわけであります。


追記:School of lockの影響について。
YOUNG FLAGのイベントでメーデーを初披露するとき、「みんなの顔を考えながら作りました!」と藤原基央さんは言った。手紙を送るような視聴層は大概「女の子」なわけで、無意識的に彼女たちの顔が浮かんだからメーデーはこういうつくりになったのではないかと思っている。つくりというか、少なくとも男の子である僕はささやかながら疎外感をを感じてしまったのである。たとえばグングニルとかは完璧に男の子の歌のように思えるし、車輪の歌やくだらない唄は君においていかれる僕=社会に阻害されつつある弱い男の子の姿を描いていて、女の子ばかりがスポットライトに当てられているわけはないのだけど。