幸福論

HAPPYとか、幸せって言葉を最初に考えた人ってすげーなー、とか思ったので。語源チェックしてみました。
幸せ…

「しあわせ」は室町時代頃から使われ始めたといわれ、「為る(しる)」と「合わせる(あはせる)」が合成されて「仕合せ(しあはせ)」との名詞が作られた。この頃には「めぐり合わせ」の意味で用いられ、「しあはせが良い」(=めぐり合わせが良い)のように用いられていた。

江戸時代には、そこから転じて「しあわせ」が「めぐり合わせの良い状態」として用いられるようになり、そこから更に、状態や様よりも本人が感じる気持ちに焦点が移って「幸福」の意味で用いられるようになり、「幸せ」との表記があてられた。

「幸せ」という言葉のもともとの生まれは、何かと何かの「出会い」の瞬間に想いが馳せられた瞬間だったよう。まさに中島みゆきの「糸」にあるよな、「あるべき糸に/出会えることを/人は幸せと呼びます」ですね。

で、HAPPY。こちらは、何かが起こる、という意味の「happen」と由来をともにしている言葉のようです。ラテン語でhapというのが「何かが起こる」という意味をもつらしい。

よくよく考えれば、ひとつの言葉ができるのは、一人の人間が思いついてポンと出来るわけでなくて、たくさんの人と時間を移動しながら付属物がくっついたりはがれたりしてくわけですよね。

「魔法の料理」のリリースはいつかな〜、と思ってる矢先に、2週連続リリースが発表、でもってそのタイトルは「HAPPY」。なんかもうMerryChristmasからタイトルにあんま驚かなくなってきたのですが、今回は本当にどストライクだなと。
「R.I.P/MerryChristmas」が、「Orbital Period」から久しぶりのリリースということもあって、これ以降のBUMPの方向性を読みとるべき重要な素材だなと、(ここにはあんま書きませんでしたがw)新しい要素を探していたのですが、いままでバンプが使わなかった言葉で、めちゃくちゃひっかかっていた言葉が、そのまま今回のタイトルになっていたので、ああ、次のアルバムはこの言葉がキーの一つをになうのかなと考えています。
「地球で一番/幸せだと思った/あの日の僕に君を見せたい」
「いつもより一人が寂しいのは/いつもより幸せになりたいから/比べちゃうから」
「とこなつの国に生まれていたら しあわせ そこで生涯の伴侶と出会ったら よろこび」
「僕の生まれた国に生まれて ふしあわせ?ナンセンス un・・・ わかってる そう」
「どこであろうと生まれたらぜったい しあわせ un・・・ 恋人がいればぜったい よろこび woo・・・ そう今はいない けど将来的に出来たならば woo・・・ woo・・・」
NewWorldサミットの方に至ってはしあわせ連発どころかその逆の「ふしあわせ」まで飛び出してきます。うん、隠しに関しては、自分でもマジで言ってんだかネタで言ってんだか微妙になってくるとこですけど、今まで使ってなかった「幸せ」という言葉がここにきて繰り返し使われてるということで、ネタとして流してしまうにはいささか粗雑すぎることであるとは思います。
3曲を通して見ると、「出会い」「出来事(その最たるもの「誕生!」)」の意味でHAPPYが見事に体現されてるかと思います。

特に、「R.I.P.」について言及します。
個人的に、この曲はよくあるJpopの皮をかぶっていながらも、実はそれを乗り越えて行くような曲であると解釈しているんですが、例えば「そんな当然を思うだけで」の部分は、Jpopの文脈から照らしてみると非常にメタ的な表現だと言えます。歌詞に限らずですが、この世界や自分の生は、は偶然か、それとも必然でできているのか?という、「哲学的」な命題がありますよね。
数年前、スペースシャワーのMVAの授賞式の時、YUKIがコメントで、「自分は<運命は必然じゃなく偶然でできてる>と書きましたが、本当は<偶然じゃなく必然でできてる>と分かったので、これからはそう歌います」と言っていたのを覚えています。母親はしきりに感心していたのですが、僕はやや冷笑的に見ていました。その、自分の今現在の考え方に照らし合わせて歌詞を変えていくというスタイルは、別に悪くはないのですが、偶然とか必然とか、そんなことは日々の生活の中で分かるはずも無いし、分かったとしもごく個人の独りよがりな信仰に過ぎない、と見ていたからです。今そこでしたように、今後「いいや、必然でなく偶然に過ぎなかった」という信仰に変わってしまう瞬間が訪れる可能性は間違いなくあるわけで、キリがない。そんなことを高らかに歌ったり、変えたりするのは安易ではないか?
YUKIのJOYに限らずとも、そのような偶然/必然に関する歌詞は山ほどあります。奇跡/運命とかも同じですね。だいたい、「しょせん偶然に過ぎない、それでも(だからこそ)すばらしい」みたく偶然性を偶然性であるがゆえにありがたがる型と「自分の存在をタフに世界に意味づけて必然性を信じようとする」型とに大別できます。GReeeeNの「キセキ」では

僕らの出会いが もし偶然ならば 運命ならば? 
君に巡り会えたそれって奇跡

とありますが、煎じつめると前者です。「奇跡」という言葉は非常に使いやすいですが、あくまで、偶然に価値を賦与して言い表した言葉に過ぎません。ロジックとしてはちょっと飛躍しすぎている(歌としては、十分成立しているからいいんですけど)。
RADWIMPSの「ふたりごと」もこういう構図にあてはめられます。「神様もきっとびっくり/人ってお前みたいにできてない」というのは「必然性をはみ出した偶然性=奇跡的な君の賛辞」で、途中「奇跡だろうと/何だろうと/ただありがとう」と言い含めるものの、最後では「君は言う/奇跡だから/美しいんだね/素敵なんだね」と、やはり偶然性を称揚している結論になっている。ドラマチックな奇跡を結論付けている。

ようやくRIPです。初めてこの曲を聴いたとき、冒頭のサビメロの部分で、

そこに君がいなかったこと そこに僕がいなかったこと
こんな当然を思うだけで 今がこれほど

と歌われて、ああ、この「当然」が物語の中で「偶然」「必然」最後にまた「当然」、みたく変化していくんですね、わかります、とか考えていたのですが、まだまだでした。徹頭徹尾「当然」で、そこにい"いなかった”ことの当然性というテーマを歌ってから・・・つまり、大きく迂回して、「今は傍にいられること」について歌われるのですが、あくまでそれも「当然」でしかない。「今は傍にいられること・・・ これって奇跡!」みたいにはならない。
偶然/必然、運命/奇跡とかの2項対立に対して、「当然」という言葉をあてて、あえて評価の審級を一段階下げることによって、で、絶対にそれに運命性とか奇跡性を見いださず、あくまで「愛しい」とか「怖い」だけに留めていることで、逆説的ですが、メタに「出会い」「出来事」を描写しているんですけど。
そういう、徹底的に批評的なテクストが続いた一番最後に、

地球で一番 幸せだと思った
あの日の僕に君を見せたい

という願いがこぼれているのは、宙に浮かんでいる感じすらあたえています。
君がそこにいなかったということは当然、ゆえに、君や僕がそこにいない世界も当然あり得る、…でもその当たり前を思うがゆえに今が愛しく怖ろしい・・・とか散々言った挙句に、あの日の僕が君を見ている、っていうあり得ない光景を夢想するのだから。
でも、そんな矛盾も、それが「幸せ」と結び付けられると、説得力を持ってしまうから不思議です。プラネタリウムを初めて聞いたときに、BUMP OF CHICKENには「恥ずかしい」って言葉を使ってほしくなかった、とちょっと胸が痛んだのを覚えていますが、「幸せ」って言葉はそれと似た感覚を与えてくれます。

まあ解禁まで「HAPPY」について考えるのでしょうね。