「『悲しみは消える』と言うなら 喜びだってそういうものだろう?」

もはや今更感ある方もいるでしょうけど、HAPPYについて流石に言っておかなくては。なんの義務感だっつう話ですけど。
この歌詞って、曲調も相まってストレートな歌のようにも聴けます。予め、それは真実であるとも言っておきますが、実は執拗にひねくれ屋で、「才悩人応援歌」とか「ひとりごと」みたいな、“言葉の仕掛け”がたくさん仕掛けられています。

まずもってタイトルにも書いた、

悲しみは消えると言うなら
喜びだってそういうものだろう

と言う、ところの解釈なんですが、これは字義通りに受け取ってしまうとよろしくないと思うのですねー。

優しい言葉の雨の下で
涙も混ぜて流せたらな

という部分が直前にあるんですけども、この「優しい言葉」が『「悲しみは消える」さ!』みたいな物言いにあたるとみましょうか。

タイトルの記述の表記に注目してください。

「『悲しみは消える』と言うなら 
喜びだってそういうものだろう?」

そっかー、たしかに喜びも消えちゃってるもんだよね、藤くん!って解釈すると、ちょっと個人的には、どうかな、って思うのです。
どちらかと言えばベルの「僕のことなんか一つも知らないくせに」ってな感じ。


”アンタさぁ、「悲しみは消える」とか、えらい簡単そうに言って慰めてるつもりなんだろうけども、その理屈で言えば「喜びも消える」って事になるよなぁ?全然、救いになってねぇんだわ、悪いけど。”


この部分について、具体的な状況的を想起すると、こんな感じの、逆ギレっぽいもんになります。誰かの優しさとか善意が素直に受け取れないときと言うか、ううむ、素直ってのもおかしいんですけど、とにかく、こういうときは少なからずありますよね。

こう考えると「涙も混ぜて流せたらな」ってフレーズが、遡及的にアイロニカルな意味を帯びてきます。
涙なんて出ない、かどうかは言い切れませんが、少なくとも彼は「優しい言葉の雨」に、単純に救われるなんてことないんですから。
涙と優しい言葉は、溶け合うことはけしてなく、彼はため息混じりに「涙も混ぜて流せたらな」と嘯く…。

ただまあ、これは分かりやすく説明してるわけであって、大事なのは、文脈とか状況だけでみたら苛立ちとか八つ当たり感ばっかりが先立つ言葉に、こういう「音」が付与されているっていうところです。

そう、だから、その直後の、

誰に祈って救われる 継ぎ接ぎの自分を引きずって

ってフレーズも、刺さる。頭でなく心で理解されます。
「神の死」以降の宗教性、ポストモダン的主体の解体…*1、そんな風な言葉で説明することもできるだろうけど、もっと私たちの生において実質的な肉感がこのフレーズ宿っている。

そして、僕らが気付くことは

優しい言葉の雨に濡れて 傷は洗ったって傷のまま
感じることを諦めるのが これ程難しいことだとは

ということです。ただ、時間の経過もあって、1番のBメロほどアイロニカルには聴こえない気がしています。


そうそう、ここで「感じることを諦めるのがこれほど難しいことだとは」という告白がなされているので、それより前に歌われている、

健康な体があればいい 大人になって願う事
心は強くならないまま 耐えきれない夜が多くなった

膨大な知識があればいい 大人になって願う事
心は強くならないまま 守らなきゃいけないから

のところも解釈しなおさなきゃいけませんね。
もちろん、「健康な体/膨大な知識があればいい」と発語されたその瞬間の感情はそのままで構いません。発語された瞬間から、ある種の嘯きであることには変わりないと僕は解釈していますが、全体を見るとなるとまた微妙に意味合いが変わってくるという話です。
あと、細かいですが、「守らなきゃいけないから」という表現も、多義的ですね。ここはひねくれというより、切実さを感じます。

まとめてしまうと、
“「健康な体」も「膨大な知識」も、メシ食って呼吸して生きてく上では心の代わりにゃあなるけど、この「痛み」(って1サビで出てきますけれど)には、どうしようもない。”
てな感じ。

やっぱりここでも、アイロニカルなものを感じます。けども、決してシニカル(冷笑的)ではないところがミソですね(歌の力ってすごい)。

2サビに行きますが、あの心に関する「告白」を契機にふっきれ、うって変わって「優しい言葉」、そう「優しい言葉」が、それこそ「雨」のように続きます。ここがもう天才的というか、意地の悪さすら感じるw*2

終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる
無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて
借り物の力で構わない そこに確かな鼓動があるなら
どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう

一応さっきこれ書くにあたって「BUMP HAPPY 解釈」と、検索かけてみたりしたんですが、ここらへんの引用率はとくに高いです。まんまとみなさん「優しい言葉の雨の下で涙も混ぜて流」してるみたい!あんまりイヤミっぽく書くのは好きでないんですが、ここはHAPPYって結局なんだろうってとこにもつながる重要なところなので、あえて。

この部分がどこに位置付けられているか、ということをここでは考えたいわけで、内容についての解釈もまた、もはやあえて語ることもないと思います。バンプを聴いてきた方だったら、かなり既視感もありつつ、感じれるところかなぁと。個人的には「確かな鼓動があるなら」って所が特に好きです。

まあ僕自身も初聴は素直に感動してたということでご勘弁ください。そこらへんは素直に感じちゃう子ですよ。歌ですし。ただ、世の中にはバンプをまやかし励まし系ロックバンドと見てるひとも少なからずいるわけで、彼らにとっては、逆に「素直に」苛立ちを覚える箇所でしょう。

(余談ですが、今まで言ってきた感じで歌詞を読んで、そういう一般の人たちに対するアンサーちゅうかカウンターというかエクスキューズとして、あえてこれをシングルカットしたというのであれば、スタッフは本当にキレ者だと思いますが、実際のところどうなんでしょうか。構造的には、こういう回りくどいことは「才悩人応援歌」とか「ひとりごと」でもやっています。単純なポジティブソングは書きたくない、というかそれ以前に、そんなんじゃ全く響かないだろう、という作家としての矜持を感じます。)


そして、

優しい言葉の雨は乾く 他人事の様な虹が架かる

ここも、言葉で語るというより「わかるっしょ?」ってとこだと思うんですが、「他人事のような」という形容がトリックスターです。
単純に「他人事のような虹が架かる なんか食おうぜそんで行こうぜ」というフレーズで、グッとくるところはあるんですが、ここが「僕と一緒に歌おう」というフレーズと一つの歌の中で共存しているというところに眩暈すら感じます。
自分で、自分の歌(「優しい言葉」)がなんとなく誰かのうちに結んだ心象を、「他人事」と評しているという風にも解釈できるわけですから。
それが皮肉で終わらないのは、最後に

消えない悲しみがあるなら 生き続ける意味だってあるだろう
どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう

と歌われるから。

ひねくれ屋さん(かつての彼なのか、リスナーなのか、そこは多義的ですが)の唱える、

「『悲しみは消える』と言うなら 
喜びだってそういうものだろう?」

というロジックを、大げさに言うのならば、哲学者が本当には成し得なかったやり方*3で、脱構築してる所です。脱構築もまた、バラバラになった関係を構築してしまうから、そのような意味で2サビなんかは、ロジックによるロジックの打破であるがゆえに、理屈を超えきれないし、空疎に響きがちです。アレゴリー、「打ち棄てられた瓦礫が形作る一瞬の星座」は、形作られた瞬間にのみアその価値を放ち、即座に陳腐化するのと同じです

でも、この対応しあう2か所には論理の飛躍があり、それがゆえに論理を超えて(=ひねくれから開き直った)、不可視の領域から、差し伸べられる手がある。「『悲しみは消える』と言うなら喜びだってそういうものだろう?」に始まる、曲を通しての逡巡、それらを見て、「消えない悲しみ」を視てとった彼だから、「それゆえ生き続ける意味があるだろう」と言える。ここの「それゆえ」というのは、
“消えない悲しみがあるゆえ喜びも存在し続け、それは生きる意味になるだろう”
とか
“悲しみが生に重さを与えるゆえ生きる強度が生まれる”
とか、
“不在の悲しみが存在を逆説的に示すゆえに、その空っぽを抱えて絶えず「応答シ続ケル」倫理的責任が生まれる”
とか、
色々考えることはできそうです。ここはロジカルに考える余地はありましょう。

問題となるのは次の飛躍です。
「『悲しみは消える』と言うなら〜」から、「<消えない悲しみがある>なら」と手を差し伸べることができる飛躍こそが、そう…、人間的です。と同時に、歌という表現形式の持つ可能性について、実に真摯です*4


こんな感じで、ひとまず今回は「実はHAPPYて曲はちょっとひねってあるよ」的なことを言って終わりたいと思います。
形式についてばかりでしたが(最近の傾向ですね)、個人的にはそっちから主題(今回はHAPPY)に近付きたいのです。
とりあえずこういう考え方をしている僕が居るということを知って頂ければと思います。読んで下さった方が、一緒に曲を反芻する契機になれば、なお幸いです。

*1:これについては、ゆうたらバンプが宗教的エネルギーの対象となっているとも言える、少なくとも俺においては

*2:僕の意地が悪いだけかもしれないですけどね!

*3:素人の私見なんで専門家の方は優しく見てほしい

*4:結局、半分を「物語」という、条件を自分で設定できる土俵でやっているゆえ、完璧な脱構築ではない、と言わざるを得ないでしょうが