総合学習論文 孤独とエゴイズムの解釈 

BUMP OF CHICKENという名のロックバンドがあります。メンバーは全員20代、間違いなく今のティーンにとって最もポピュラーなロックバンドの一つとしてその名は上げられると思います。その歌詞について、つれずれと考察のような物を繰り返していった結果として、今回の総合学習ではその考察を基にこのBUMP OF CHICKENの持つ世界に即しての「孤独とエゴイズム」について僕の思うところを述べて行きたいと思います。他にもいくつかあったテーマの中で特にこれを発表しようとした動機としては、漠然とではありますがここにこのバンドだけが持ち得る、現代社会との何らかのコミットが僕の中で見受けられ、そこを述べていくことによって公のBUMP OF CHICKENを良く知らない一般の方々にもそれなりの興味を持ってこの思索が受け入れられるであろうと想定したからです。

そしてその身をどうするんだ 本当の孤独に気付いたんだろう
溢れる人の渦の中で 自らに問いかけた言葉
放射状に伸びる足跡 自分だけが歩き出せずに居る

オンリーロンリーグローリーという(一見妙ではある)タイトルの曲の冒頭です。唯一つの、孤独な、栄光。ここで述べられる「本当の孤独」とは一体何でしょうか。
人が「孤独」を感じる時、それに「寂しい」「辛い」といった感情が付随してきます。然しながら、「本当の孤独」とは常に誰の傍らにも佇んでいる存在なのではないでしょうか。更に言えば、今現状で世界の誰もがもれなく孤独である、と言う見方です。孤独は山の中ではなく雑踏の中にこそあるとも言われます。人間は常に孤独で、中々それに気が付けないだけなのではないでしょうか。何らかのきっかけでそれに気付いた時に、勝手に人間が寂しさを感じていくだけな訳です。 例えば口論、あるいは仲間外れ。裏切りでもなんでもなく全ての存在はもともと違った存在で、それが発現しただけに過ぎないのだと思います。
群れから離れた一匹狼は、「孤独」を感じるでしょうか。間違いなく感じないでしょう。だが間違いなく孤独です。人間としては孤独と名付けたい。しかし、彼は生きる為の一つの手段として群れを離れたに過ぎなく、彼に対して人間の知性が勝手に「1匹狼」と名付けたに過ぎないのです。
群れの1固体1固体もある意味では孤独では無いのでしょう。かしそもそも「1匹狼」なんて変な表現で、じゃあ「10匹狼」なるものは存在するのか、という話です。「1匹狼」が集まって群れを成していて、そういう意味で誰もが孤独な訳です。
さらに言えば、彼らは群れる為に群れるのでなく、生きるために群れていると言う事も特筆です。他人に触れて傷付くのを恐れるその一方で、人間は、群れるために群れる事もまた好みます。接触に伴う痛みと一人に凍える恐怖との間で人は常に揺れ動き、それに対して自らを没個性することをしてまで他者を求めてしまう。しかしどんなに抗ってみても床の中で闇が遊離感、断絶感を運び、実は孤独の穴埋めなど到底出来ていなかったと気付かせるのです。等しく全ての人間に「本当の孤独」は常に付きまとってくるのです。所詮は忘れたフリがしたいだけなのです。孤独=一人=誰しも常に孤独、というのが一番シンプルでディープな答えの様に思えます。

「僕らの場所は 僕らの中にどんな時も」
とfire signという曲の中では唄われていますが、この部分は2通りに解釈することが出来ると思われます。
まず、「僕らの場所」というのは「僕ら」と言う集団の全員が共通に持つ場所だと捉える方法。例えばクラス・学校といった概念や、二人、三人、四人の思い出の場所だったりに置き換える事も出来ると思います。
もう一つは「僕ら」と言う集団の「僕」一人一人が、めいめいに自分だけの場所を想っているのだと考える方法(この曲中では、平たく言えば「誰しもありのままでいいのだ」というメッセージを持ちます)。逆に言えば、「場所を持つ」人間の集まりを「僕ら」とした、とも言えるかもしれません。
僕は後者の方を断然推したい。一つには曲全体に漂う微かな悲壮感、それと整合性が取れるから。もう一つにはよりポジティブ−前に進むためにより威力的な唄としてこの楽曲を存在させる事が出来るから。そして「僕」の中にある「命の灯」と言う概念が圧倒的に生きてくるから。
とても力強く壮麗なこの曲ですが、ベースとなっているのは絶対的な孤独感。その孤独感の最たる部分である「僕らの場所は僕らの中に どんな時も」と言う部分がここまでポジティブに歌い上げられています。
孤独は悲しい事なんかじゃなく、絶対的な事実。そしてその事実は自分はどこに居ても自分でしかないのだと言う、ある種の安堵感、希望感がそこにはあるように思えます。

先程も述べましたが、その存在を何らかと繋ぎとめておきたいとき、人間は孤独を恐れ、その結果としてまず自分と分かり合える他者を望みます。BUMP OF CHICKENにおいて他者との接触について歌われる曲は非常に多く、「触れる」という言葉、行為は角度を変えさまざまな形で描写されてきました。互いに触れ合ってみて初めて互いの姿が分かると彼らは述べており、その詞の殆ど全てがyou&me的な内容であることからも、対人関係であれ何らかの経験であれ、対象物と「繋がる」事こそ人間であることの最も確かな証明になるのだという意志が詞から汲み取れます。
しかし、当然ながら「触れる」と言う行為は温もりを含めば恐怖や痛みを含む事もあります。

腕の中へおいで 抱えた孤独の その輪郭を撫でてやるよ
明かりのない部屋で 言葉もくたびれて 確かな物は温もりだけ
(中略)
腕の中へおいで 隠した痛みの その傷口に触れてみるよ
時間の無い世界で 理由も忘れて 確かな物を 探しただけ 見つけただけ
腕の中へおいで 醜い本音を つむいだ場所にキスをするよ
命のない世界で 僕と同じように 生きてるものを探しただけ (embrace)

この曲もまた「僕」と「君」の物語をその歌詞の内容としており、「触れる」事が描写されています。また一人称で「僕」以外の客観的思想は一切含まれて居ません。一見するとこれもまた温かみのある優しいラブソングのように見えます。
これを否定しようと言う訳ではありません。この作品中の「君」がそれを望んでいるならば、需要×消費の関係は成り立つ訳であって、「君」の感情についてリスナーの想像の余地が残されている以上これを否定することは出来ません。しかしここはそういった人間の正の部分だけを描写した歌では無い、というよりも正と負の部分は紙一重であることを描写した歌ではあるでしょう。この痛みが存在の証明になるとして、それを望まないのにも関わらず他人に人には見せたくない傷を勝手無闇に触れられるのはどんな気分でしょうか。そして彼にとってはただ単に「生きてるものを 探した」結果として「君」このような言葉を掛けただけかも知れない訳であって、彼にとって「君」が「君」である必要性があったのかさえ疑われます。
何らかの物と繋がりたいという思いは、人間が人間である以上間違いなく付きまとってくるであろう「孤独の意識」がある以上消える事はありません。しかしだからこそこの行為はエゴイスティックなものでもあるわけであって、それに嫌悪感と抵抗感を感じてしまう事によってジレンマとまた新たな孤独が生まれます。

「情けは人の為ならず」と諺にあります。よく、『「情けをかけるのはその人の為にならないから」というのは間違っていて、「巡り巡ってその恩が自分に回ってくるから」というのが本当だよ』と言われたりします。
どちらの意味でもいいじゃないかとは常々思うんですが、firesignにおいてこの言葉を眺めると、この言葉に対してまた違った形の解釈が生まれてきます。

誰かの為に生きるという 想いを込めた旗を抱き
拾ってきた笑顔の中に 自分の笑顔だけ見当たらない
いつか聞こえた泣き声を ずっと探してきたんだね
少し時間がかかっただけ 自分の声だと気付くまでに(fire sign

 物事を実行することにおいて、「やりたいからやる」というのは真理であると思われます。やりたくないことをやっている、なんて言う方も居ると思いますが、でもそれって「行動の辛さ」と「しなかったときの辛さ」の足し引きの結果、自身の選択として「行動の辛さ」を選択したに過ぎないのではないでしょうか。つまり、どんな行動もエゴであるのです。エゴとエゴのぶつかり合いで、その結果として救い合う時もあれば傷つけあうときもある、そういう風にして人は関わり合っているのだと思っています。「誰かの為」というのは、そのほっておけない気持ちを解消するために自分が何か行動を起こしたいという一種のエゴであります。そして『易しさ』とも言うかもしれません。「JUPITER」収録「メロディーフラッグ」では、
少しでも傍に来れるかい すぐに手を掴んでやる(メロディーフラッグ)
という主人公を描いていましたが、「supernova」では

伸べられた手を守ったその時に 守りたかったのは自分かもしれない
君の存在だってもうずっと抱きしめてきたけど 
本当に怖いから離れられないだけなんだ(supernova)

と、自らの弱さ、エゴと真正面から向き合っています。supernovaは果たして優しい雰囲気の曲ですが、その「優しい雰囲気」ははたしてどこから来ているのやら、と人間の性質について疑わざるを得ないところです。人を助けると言う行為は素晴らしい行為だと、小さい頃から単純に教え込まれてきましたが、それは本当に疑う余地は無いのでしょうか。この思想は疑うべきものではないのかもしれません、然しどうしても記憶を疑う前に記憶に疑われてしまうのです。

正解不正解の判断 自分だけに許された権利
過ちも間違いも自分だけに価値のある財宝(sailingday)

とは、少し穿った見方をしてしまえば犯罪さえ助長し得るようなフレーズでは無いでしょうか。もちろん彼らもそれを理解した上で作品を発表しているとは思いますが、これは要するに、自分が本当に真実と思う事ならそれこそ他人を傷つけてもかまわないという事とも取れてしまうわけです。別に揚げ足取りをしている訳でもなんでもなく、僕の中でsailing dayという楽曲のメッセージの一つにそういうものを秘めていると言う事です。
個人主義とはつまりそういうことだと思います。バンプの詞、特にアルバムユグドラシルではほぼそういった類のものが描かれていると僕は読んでいます。話を飛躍させていけば近代のこういう思想がBUMP OF CHICKENないし藤原基央を生み出したとも言えると僕は思います。しかしそれが現代に息付いていたフォーマットであることは紛れも無い事実で、実はそういう残酷な世界に好き好んで(先進諸国の)僕たちは住んでいて、それが現実だったと思い知らされた気がしました。
エネルギーの浪費、飽食、CO2の大量排出、フロンの放出、これらが原因となって苦しんでいるどこかの誰かを想った時、果たしてこれを「罪」として知覚せずには居られるでしょうか。もっと言ってしまえばそのちり紙を一枚使った時に、この手は汚れてしまうかも知れない。もっと身近な所で言えば競争社会であったり受験戦争など、これらは自己の存在の為に必然的に誰かを傷つけ退けていかなければならない、という状況でもあります。他人の不幸は蜜の味です。
「人の為」なんて「偽」りで、百歩譲って上記の様な行為を行わない人畜無害の仙人に成れたとして、それは「自分が犯罪者になりたくない」つまり「自分がそうしたい」という欲求からなるものとも言える訳で、結果として人の為になったかもしれませんが、それは結局自分の欲求を満たすための行為に過ぎないのです。
 何の為に、誰の為に、生きて行くのか―
そこで行き着くのはやはり孤独な「自分自身」だとしか考えられなく、けれど僕は僕のためならこの命を捧げる事が出来る。今ここで生きているのがその揺るぎの無い証拠で、つまりは「たった1秒生きる為にいつだって命懸け(sailing day)」という言葉をそのように解釈します。サルトルの言葉に、自己を投機するという選択の果てに今の自己がある、といった旨の言葉がありますが、人とは命を削り自らの存在を形作っていく存在で、平等に与えられた時間をどのように使うかは個人の自由であるにしろ、それらは全て自己へと還ってゆきます。そして、人はそれを簡単に引っぺがすことも出来なく、過去も今も(特に過去の自分に関しては)全てを総合しての自分であり、どれだけ嫌気が差したとしても突き放すことも捨てることも出来ないのです。だからと言って、ならば愛せよとはすぐには言えないけれど、でもどうしたって結局、失敗した自分・失敗する自分でもどうしてか愛しい、その自己愛がたとえ微かでも個々の中にあるからこそ「いま、ここに」人は存在します。そして人はより内面を見つめ、知らずのうちにまたより孤独を知覚していくのです。

ここまでBUMP OF CHICKENにおける孤独とエゴイズムのロジックを述べてきましたが、最後にこのテーマに於いて、彼らが一番大切とする事を述べてこの文章の終わりとしたいと思います。 
全ての作詞を手がける藤原基央氏は「一人で生きていく強さなんていらない。もし貰ったとしても、リボン付きで送り返すだろう」と言います。
人は永遠に一人です。それは自明の真理であると思われます。然しだからこそその境界があまりに脆弱な自己に何らかの形を与えてくれ、繋がりを繋がりとして、温もりを温もりとして感じさせてくれます。
「Title of Mine」というタイトルの曲があります。おそらくこの歌が今回述べてきたことの全てを物語っているように思えます。

人に触れていたいと唄っていいかい
奪い合ったり騙し合ったり 些細な事で殺し合ったり
触れてみれば離れたり恐くなったり
だけどそれでも
人に触れていたいと願うヒトが好きだ
嗚咽さえもタレ流して
何度となくすがりついて傷ついて
君に触れていたいよ名前を呼んでくれよ
誰も居なくて一人なら
こんな歌を唄う俺の生きる意味
ひとつもない あぁ  (Title of Mine)

 人は人との結び付きの中でしか人として生きられません。ただ我を押し通す私の肥大化した人間の持つそれは「個」としての人格とは似ている様でどこか違うものです。一見すれば前向き、しかしそれを少し読み解けば自分勝手な事を言っているようにも取れてしまえる歌詞も確かに存在しますが、このTitle of Mineという楽曲がTitle of Mineという名前である以上、BUMP OF CHICKENの描く「個」というものは暴走した「個」ではなく、集団の中の「個」であり、非常に遠回りな道のりでしたがだ、だからこそ僕はここにより深く重い意味での「愛」と「優しさ」を見出します。

・・・
以前あったテキストの継ぎ接ぎではありますが、これによって何らかの一本の線が出来ればと思います。
さて、本日をもって筆者受験勉強に専念するためこのブログの更新を一時凍結したいと思います。読んでくれたり書き込みまでしてくださったり、今までありがとうございました。
しばしのお別れではありますが、合格次第戻ってきますので、その時まで!
2006 4/6 午前2時