「レスト・イン・ピース」

最近、なんとなく「R.I.P」の意味がわかった気がしてきているので、それについて。

キーになるのはやはりここでした。

ここに誰が居たかっただろう
それが僕にもなりえること
そんな当然を思うだけで
眠れないほど 怖いんだよ

たぶん、実際に藤原さんが夜中眠れないときに思った事なんでしょう。
小さい頃夜中眠れなくなって、親とか自分が死んでしまうときのことをぐるぐる考え込んでしまった、みたいな体験があるかないかで結構大きいと思うのですが、個人的にはかなりそのときの気分が思い出されるところです。
僕が思ったのは、もしも何かの拍子で、「いまこんなことを考えている僕」ではない、「顔も声も性格も違う僕」が、両親や友達に「(俺の本名)くん!」と呼ばれていたりしたらすごいおそろしいなぁ、とかそんなことでした。
まあこれはちょっと、この部分の詞の本義とはそれるのかな。「僕にもなりえること」とあるので、もうすでに僕は存在しているわけで、そうすると、単純に死についての恐怖を述べてるという部分になるんじゃないかと思います。
ここの部分を深く解釈するために、全体の展開を確認しましょう。おそらくですが、1番で

そこに君が居なかったこと

と述べられ、2番で

そこに僕が居なかったこと

とあるのは恣意的なものではありません。
1番で歌われているのは、「僕の過ぎ去った過去(そこ)には君が居なかった」ということ、2番では「君が体験してきた過去(そこ)には僕が居なかった」ということで、ごくごく当たり前の話、どちらが先でも、さほど変わりないように思えます。でも実際によくよく考えてみると、僕らは気付かないうちに認識の飛躍をしていることに気付くはずです。認知の順番としては、まずもって僕の記憶の中に君が居ない、という悲しい事実を経て、初めて、ああ、それならば同様に君の景色の中にも僕は存在しないのだなあという順序で思いがつづられている事も確認しないといけません。自分が記憶を持っている事が、そのまま他者もまた記憶を持っていることにはつながらず、コミュニケーションの繰り返しを経て、初めて、他者もまた自分と同じような痛みや記憶を持っているということが認識されるのです。僕の景色には悲しいかな君が居なかったことがある、そして、そのことから類推して言えるのは、君の景色にも僕が居なかったということ。それでも「今は傍に居られる」と、いったんここで、世界中は輝く。変わること、居なくなることは避けられないけれども。
長くなりましたが、ここではこうして1人称と2人称の隔たりについての思索が巡らされるということです。目の前にいる大切な人に想いを馳せるという状況(思いを馳せる、というのは普通遠くに在る存在に対して用いる表現ですが)から転じて、当初問題になっていた箇所に至ります。
そこでは「ここに誰が居たかっただろう」と、第3人称が問題になっています。全く顔の見たこともない誰か。
“相手”の居ない自分の過去の記憶が、君にそのまま投射されたように、変わっていくのならその未来をすべて見ておきたい、居なくなるのなら居た過去をすべて知っておきたいという願いも、それが叶わなかった誰かの「ここに居たかった・・・」という未練へとつながってしまうわけです。
「睡眠時間」でも歌われていましたが、やたらと眠る前は死を意識します。

このまま起きていられたらなぁ
子供はいつだって 大忙し

このまま 生きていられるかなぁ
馬鹿馬鹿しくたって 大慌て

いつまで生きて いられるかなぁ
いつまで生きて いてくれるかなぁ
このまま起きて いられたらなぁ
大人になったって 大忙し

眠る、横たわるといった動作は、そのまま死を意識させるもので、世界がこのまま無に帰してしまうかもしれない、もう二度と会えないかもしれない、といった、眠れないときの存在の在り方(あのしんどさも含めて)は、そのまんま死に臨まんとしている存在とパラレルでしょう。
床の中での苦悶を通じて死者の恐怖の片鱗を知るからこそ、そしていつかは自分もそこへ往くからこそ、「Rest in Peace」がより切実な意味を帯びてきます。忘れられてしまう、無に帰してしまう、という死に臨むもの恐怖に対して、生者の側から「安らかに眠れ」と呼びかけ続けることは、もはや呼びかける行為自体が死者にとって救い(忘却されていないことの明証)であるし、その行為体験はそのまま生者へ帰って来て、いずれ死にゆく自らにとっても救いたりうる。生きている限り、私の意識がそこにある限り、いつでも(私ではなく)他者が死んでゆく。他者のみが死に続けてゆく以上は、私は常に「生き伸びてしまったもの」である。そこには、私が生者である必然性も感じられず、とすればこの今横たわっている場所は、あるいはその他者が占めていた場所であるかもしれない*1。“ここに誰が居たかっただろう?”。ゆえに、「生き延びたものとしての咎に置いて、他者の死は私のことがらである*2。第3人称の死が、無限の責めとなって僕(と君)にのしかかってくる。

 これが曲中でリフレインされるのは、

地球で一番 幸せだと思った 
あの日の僕に君を見せたい

の直後からです。また理屈が入り組んでいるのですが、ここもまた、死を内包した生というものに関するところ。
背筋の曲がった、つらそうに歩く祖母。父に腕相撲で負ける祖父。そして、肩の凝りがちな母、いつしか私に腕相撲で負けるようになった父。あるいは、彼らの 皮膚には、無数の皺が刻みこまれています。それぞれの皺が、それぞれの生きてきた時間の経過を、もはや取り戻すことのできない、今や決して現前せず、過ぎ去った時間の証左となっています。2人称は、私の前でつねに、すでに、老いている。そして、それはさらに、もはや現前することはないであろう時を示すものであり、他者の不在そのものを先取りしてしまっている*3。一見冗長にも思える、Aメロ部の過去の追憶パートは、この抽象的な議論を具体的に素描するために必要な部分であったということでもあります。
そんな催事場での一コマでの僕。に対して、今の僕が、「あの日の僕に君を見せたい」と願うというのは、「互いに共に在らなかった世界」を消し去ってしまうという意図のもとにあると理解できます。
とすれば、この願いの根源は、意識の向かう先が過去か未来かという点が違うだけで、死に臨まんとする者が抱く、決められた生の長さに対する未練と一緒です。
この場面で、「安らかに眠れ」とリフレインされるならば、

変わっていくのなら すべて見ておきたい
居なくなるのなら 居たこと知りたい

という願い=未練の、儚さと勁さに、改めて苦しくなるはずです。

 「Rest in Peace」はおそらくこんな意味を持っています。意味を持っているというか、こんな経緯で、発語されているのだと思います。まあこの記事はのちのちちょいちょい手直しするかなぁ。今回レヴィナス先生にいろいろと助けていただきましたが、この記事を読んで興味を持った方は是非参照してみてください。

*1:E・レヴィナス『存在するとはべつのしかたで』

*2:講義録『神・死・時間』

*3:E・レヴィナス『存在するとはべつのしかたで』