東北関東大震災によせて


めったに社会的なアクションを起こしたりしない彼(ら)から届けられた一曲について。

この日に奏でられた「ガラスのブルース」はいろんな捉え方、響き方を生んだ歌になったという事をまず確認しないといけない。
でもどの立場にある人にとっても共通して届いたメッセージは、
「そこに藤原基央が居る」
ということ。
これだけは揺るぎないと思う。
逆に、僕自身にとってはそれ以外には何もないのかもしれない。

たとえば、直接被災に遭ってしまって、今もまだ住む場所や食糧の少なさに喘いでいる人たちにとっては、この「ガラスの目をした猫」の一挙一動が励みになるのかもしれない。
けれど、それを僕自身が想像することは邪推に他ならないし、そういった彼ら(藤原基央と被災地の聴き手)の間のやりとりを想像し、そこに美しさの様なものを見い出し快楽に浸ってしまうこと、浸ってしまったことは、強く恥じなくてはいけないことだと思っている。

それでも、「このガラスのブルースという歌は、いつか僕自身がとんでもない苦難に襲われた時きっと力になってくれる、という確信が生まれた」「まだそこにいる彼に会いたいと思った」と書き記すことはかろうじて許されると思う。

これを読んでくれてる皆さんは、どう感じましたか?