個人主義、個の主張

バンプって、実は超自己中心的な事を歌う作品(詞)を作っているなぁと思う。そういう点ではもうミッシェルよりもブランキーよりもぶっ飛んでるように思える。

もう一番顕著に出てるのがsaling day。ヤバイってこれ(笑)

『正解不正解の判断 自分だけに許された権利』『過ちも間違いも自分だけに価値のある財宝』

って、犯罪さえ助長し得るようなフレーズとは思わないだろうか。まあおそらくバンプも分かってて出してるとは思うけれど、要するにこれって、自分が本当に真実と思う事なら、それこそ他人を傷つけてもかまわないという事とも取れてしまう。思えばタイアップのワンピースも、あれ格好良く描写されてるけど、特にゾロあたりなんて連続殺人鬼だぜ。人を殺すことを何とも思ってない。ルフィあたりもまあ何人か殺してそうだし。普段は「倒した」とかいう表記しているけれど。別に揚げ足取りをしている訳でもなんでもなく、僕の中でsailing dayという楽曲のメッセージの一つにそういうものを秘めていると言う事だ。

個人主義とはつまりそういうことだと思う。バンプの詞、特にユグドラシルではほぼそういう事が描かれている。言って見れば近代のこういう思想がBUMP OF CHICKENないし藤原基央を生み出したとも言えるのではないか。

しかし、事実それが現代に息付いていたフォーマットなのだ。本当はそういう残酷な世界に好き好んで(先進諸国の)僕たちは住んでいたのだ。それが、現実だったと思い知らされた。

ユグドラシルを聴いて暫くしてから、firesignの「誰かの為に生きる」とはそんなに必要ないものだろうかと考えた事があった。というか、そのようにfire signを解釈していた。人が人のこと思わなくなったら、僕たちはもう生きてはいかれないのじゃないか?
そう、そうだったんだ。現にそのせいで、そういうふうに生きていかれないひとたちは僕の見えないところで沢山居た。勿論、目に見えて、実感としてある人たちには優しく接する事が出来ても、果たして分からない所で俺人殺してんだろうか。連続殺人鬼。人を殺すことを何とも思ってない。それを否定したいというならば、今すぐエアコンを使うのをやめろ。肉食をやめて食事制限をしろ。極論、全財産募金したまえよ。

別にそれを否定なんてしなくて良い。だってそれは、無条件に許されている不条理だから(誰に許される、と言うところでまた議論があるのだが)。他人の不幸は蜜の味だ。

「人の為」なんて「偽」りなのだ。百歩譲って上記のことが出来たとしても、それは「自分が犯罪者になりたくない」つまり「自分がそうしたい」という欲求からなるものとも言える訳で、結果として人の為になったかもしれないが、それは結局自分の欲求を満たすための行為に過ぎないのではないか。

しかし一つ希望的観測をするならば、あるいはその人の為と胸を張って言える時、人はそれを愛と呼ぶのかもしれない。
まあ口でならいくらでも言えるけど、本当に、そう云える他人が居るのだろうかと僕は思ったりしてしまう。僕はまだ若いせいもあって、そういう他人に出会えていないからだ。
あえて僕がいうならば、僕にはそういう「人」は、居る。
それは、「自分自身」でしかないんじゃないかな。現時点で思うところは、今までもこれからも、それ以外ありえないと、そう思う。
例えば他人の為に「命」を投げ出すとかは絶対出来ない。死んでも出来ない。というかしたくない。

けれど、僕は僕のためならこの命を捧げる事が出来る。今ここで生きているのがその揺るぎの無い証拠で、「たった1秒生きる為にいつだって命懸け」という言葉をそのように解釈したい。実存主義サルトルの言葉を借りるとすれば自己を投機するという選択の果てに今の自己があるのだ。

そして、僕は彼を簡単に引っぺがすことも出来ない。過去も今も(特に過去の自分に関しては)全て自分だから、それはもうどうしようもない。嫌いとかいって突き放したりすることも出来ない。だからと言って、ならば愛せよとはすぐには言えないけれど、でもどうしたって結局、失敗した自分・失敗する自分が愛しいからここに居るんだろう。

そして人はより内面を見つめ、他者の存在<自己の存在となっていくにつれて、知らずのうちにまたより孤独になっていくのだ。

世界は自分のものか。人の傷口に触るのは、これは一体何がしたいのか、(相手も自分も)汚れを感じないのか。
ユグドラシルを懐疑の目で、この視点で見れば、そこにはまた違った側面に触れられるのではないかとお勧めしたい。