ウタヲウタウ

ああ僕はいつも精一杯唄を唄う

ガラスのブルースという曲について僕の考えている解釈を述べると、この曲の「僕」の対象が「猫が星になった」以前と以降で微妙にニュアンスが違うように思っていました。
以前の部分では「僕」は「猫」を表していると思われます(そこにはほんの僅かに聴き手としての「僕」も含まれてはいますが)。それまでの描写が猫の視線で描かれているので、自然に読めばこうなると思います。
しかし、「星になった」以降では「僕」の指し示す対象は「歌い手」或いは「聴き手」と入れ替わっているように僕は捉えています。「ガラスの目を持つ猫は 星になったよ」なんて猫がいう訳ありませんからね。グングニルなんかでも、「世界の神ですら君を笑おうとも俺はけして笑わない」というフレーズがありました。
本っ当に、絶妙です!!このフレーズを挟み込むことによって何回か聴いていくことによってそれ以前の猫の描写が実は人間にも当てはまる事だということをさらっと述べていると共に、「星になった」以降の「ああ 僕はいつも精一杯唄を唄う」というフレーズをより一層感動的な意味合い―猫が自分におしえてくれたこと、しかしその猫と自分の別れ、もう会えはしない、しかしだからこそ「僕は」生きていかなければならない―を付ける事に成功しています。


それで、これから述べるのが今日ふと思ったことです。
今まで、微妙な違和感がこの曲を聴くときにありました。それというのも、
「藤原さんはいつも歌ってる、それはわかるけど、一般人の俺は別にいつも歌ってるわけじゃない・・・」
ずっとこのことが引っかかっていまして。

それが、つい今日、まあ今回もミスチルの「sign」がきっかけとなって、昇華されました。
つまり、「唄」というものが「言葉とメロディーの合成体」である必要は、特に無かったんですよね。。

君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン
もう何一つも落とさない

どんなしぐさもどんな行為も、誰かに働きかける「唄」とすれば。。
また同アルバム収録の「僕らの音」とかでも

落ち葉 噴水 自転車 犬 耳をすませば聞こえる
すべてが愛を歌ってる
     ・・・
風の音が 鳥の声が 別れの歌に聞こえる

とあります。でもこれって今思えば「車輪の唄」でもあるんですよね。そこら辺のシンパシーも感じました。
ただ、やっぱりサインはきっかけでしかなくて、精一杯、という感じとは、根本は同じだとは思います細かい部分で相違ってる様に僕は思っています。「精一杯 存在の証明」「そこで涙をこぼしても 誰も気付かない何も変わらない」というフレーズが頭をよぎります。
要するに、微妙な差というのは気付く・気付いてもらうの違いでしょうね。バンプがそんなに厳しいこと一辺倒で物を言っているのかといったら全然違って、「oprening」「ending」「ラフメイカー」では、「涙の落ちる音」に「気が付」いています。


   ・・・

とにかく僕が「ガラスのブルース」に抱いていた違和感は払拭された、という事で。
明日も精一杯唄をうたうぞー。