心の中のロストマン

という副題で高①の時に読書感想文を書きました(笑)本読むのがめんどかったんですね〜。なんか見つけたのでうpしたいと思います。
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 これほど大きな喪失は僕はこれまで経験した事が無かった。まだ15年の人生なので当然の事かもしれないが、むしろその青さから来る経験の少なさが僕にこの作品をより新鮮かつ感動的に見せたのだろうと思った。
 まず考えたのは思い出とは何かという事だった。僕にとって思い出とは、酸いも甘いも呼べばいつでも振り向いてくれるものであった。きっとこの物語の主人公のロストマンにとってもそういうものだったのであろうと思う。
 最近僕は小中学校時代をなつかしむことが多い。あの時は本当に何も考えずに学校へ行って、放課後は毎日仲の良い友達と遊びほうけていた。そして今はどうなのかといえば、退屈と思う授業もあれば進路の事にもそれとなく悩んでいて、友人関係とかも決してこじれている訳ではないが、やはり昔とは何かが違う。もちろん楽しい事もたくさんあるが、一人でいるとふと思い出してしまう時がある。決して触れられないにも関わらず。誰にでもあるような、最後のドロップの味がいつまでも口に残って忘れられないような感覚だ。また、時が経つにつれてよりその甘さが輝くかもしれない。
 もちろんそれにすがりつくばかりでなく今のさえない現実を変えていく努力が必要なのは言うまでもないが、彼もそうだったように思い出は時に人をしばりつけ、わかっていても人間が生きてその記憶のあるかぎりは追憶の溜息はどこまでも付いてくるのだろうと感じた。
 また、あまり深く描写されていない部分だが、その喪失と別れの本質について何か考えさせられる物があった。
 先に言えばそれは自分が自分であるということである。まず、僕はこの別離は「死別」とか「強奪」のようなものではないなと思った。もちろん当てはまらないこともないのだがが、何か違う。結局、「方向性の違い」や「自然消滅」のような別れだったのではないかとそう考えている。
 だがここに語の響きから来る虚無感は無く、あるのはまた違った残酷感である。彼が「君」を失ったのは、ただ自分の道しか見ていなかったからである。だから自業自得といえばまさにその通りなのだが、それは直接的に僕に何かを訴えるわけではなく、ただ本質的なものがそこに見えただけだった。「自業自得」が悪い意味に聴こえなかったのである。
 自分が何かしたら、モーロクしていても酔っていても、その行動はちとなり肉となり己の中に入っていくのだ。どんな言い訳も言い訳にならず、だから「勉強していないからテストが悪かった」、「忙しくて遊べない」などと思っただけでもその言葉はそっくりその言葉のまま自分になる。善悪も何もなく、その無数にある行動、思考が自らの姿を形作っていくのだ。
そう考えてみれば自分が何かをするということが、何かを思っただけでも、恐ろしくなる。しかしそれと同時にそんな物は大したことはないとも思える。過去とともに生きていくためには、ただそれらが自分なのであると意識の上で理解し、受け入れていく必要がある事だけは確かなのだから。
ここで一つ確認したいのが、この物語の主人公は、ロストマンと名付けられていることである。これは迷子と直訳することができる。
 僕は昔浜辺で迷子になった事があった。羽目を外して歩き回り、気が付けば家のパラソルはどこにも見当たらず、もはやどちらへ進んでよいのかもわからず途方に暮れていた。ここはどこ?と尋ねる相手もおらず、自分がどこにいるのかという不安、それは自分自身を見失う不安なのかもしれない。ロストマンもまたそうであったと思う。
 けれど周りにいた人間達の中にそんな僕の状況を理解してくれた人はいなかっただろう。それは特に泣いたり喚いたりしなかったからだが、とすれば迷子というのは結局内的な危機でしかありえないのだろう。あのとき、それでも僕は何とかしないと思ったからこそ、家族のもとへこれ以上に無く正しい第一歩を踏み出していたと思う。きっとロストマンもまたそうやって歩き出したのだろう。
 行き着いた場所がどこであってもそれは間違いではなかったはずである。なぜなら「迷子」とは他人に与えられるものでもあり、全て自分の判断主観こそが、自分の歩いてきた道のりの正解不正解を決定付けるからである。
 ところで、この作品を読んで暫く経つのだが、最近何かおかしな感覚に陥る。この物語の主人公は「ロストマン」だが、しかしもう一人居るのだ、確かに、僕の中に。この作品の中に自分を探していくうちに、僕の中のロストマンに自己の性格が生まれてきた感覚がするのだ。それはどこかなつかしい感じもするし、生まれたばかりのような気もするが、とにかくこの作品がそれを気付かせてくれたのは確かだと思う。
 また、これはきっと特別なことではなく誰の心の中にも「ロストマン」はいると思う。誰もが何かと何かを天秤にかけて取捨選択を繰り返して、それに気付きもしないのが殆どだが、あるときにはそれに気付いて恐れたりする。もちろんその過程は人それぞれだと思うが、しかしどんな人間でも失うたびにその事実を受け入れ、そして変わっていくのだと思う。
 折れることなく揺れる、揺ぎ無い信念とともに。
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…まあやっぱ、3年の差がこれかなのかと。今と比べると、内容も細かい所も雑でうpするのもちょっと恥ずかしくはあるのですが、BUMPの記事としては書いた当時はユグドラシル出てなかったので、そのときの水準で行けば我ながら中々いい所に気が付いているなと思うし、今でもそれなりに通用すると思ったのでそのままうpします。
ちょっと手直しした奴も今後アップするかも知れません。