「太陽」という楽曲の日常性

二度と朝には出会わない 窓の無い部屋に動物が一匹

ユグドラシルの中でも一際ダークかつ内省的世界観を持つ「太陽」
なんとなく、ひきこもりの精神を描写している、とか社会から完璧に断絶かつ自身もまたそれを望んでいる者を表現した歌、といった解釈を大多数としてリスナーには受け止められている気がします。
もちろんこの解釈は間違っていないし、今から僕の云わんとしている事と字面は一緒なんですが、そういう解釈の場合、この曲がえらく「他人事」として扱われてしまっている印象があるのです。
「引篭もる」という行動は、誰にでも起こりうる事ではありますが一般的にみれば特殊な行動と言えます。この言葉(社会現象・特殊な精神状況)をそのまま曲に当てはめた時、果たして「太陽」という曲の深い意味でのポップネス、リスナーの心に寄り添うようなバンプの楽曲に特有の自己投影は存在しうるのでしょうか。

実際にその渦中にいる人にとっては揺るぎのないドキュメントとしてその解釈のまま太陽を受け取る事も出来ますし、だいいち自己投影できるからいい作品だとは限りません。ですがより真理を追究して行き出す作品であったユグドラシルに於いて見れば、やはりそういう深読みをせずにはいられません。
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結局の所、他曲との関連で話を進めていく事に成るのですが、太陽の「僕」、これを「自分以外誰も知らない自分」と捉えます。俗に言うジョハリの窓の秘密の窓(「隠された自己」(hidden self))みたいなものですね。(第4の窓から見えた自己とも、この「僕」は取れるでしょう。知らずのうちに、自分で忘れてしまった自己…)
とすればもう説明は不要なのですがあえて書いておけば。
ラストの

出れたら最後もう戻れはしない

とありますが、この部分によってこの歌が単に引きこもりの描写物ではないと言う風に僕は解釈しています。別にいつでもひきこもりに戻ってしまう事は出来ますから。これをhidden selfとして見れば、他に自己が知覚されてしまうと言う事は、その後どう隠してもその自己は他者の中で永遠に残ってしまうものだ、という意味に捕ることが出来ます。だから、自分の嫌な部分は、自信のない部分は、隠す。
非常にリスキーな選択―「本当を伝えたくて」も、その行為にの結果として体面的・精神的に自分を傷つけてしまう可能性があります。

それより触ってくれよ 影すら解けてく世界で
影じゃない僕の形を

汚れた手と手で触りあって真実の自己の形が分かる、と「カルマ」では歌われますが、それは想像以上に痛みを伴う行動です。しかしそれでもそれを望む気持ちを抱いてしまう。

かくれんぼしてた 日が暮れてった
見つからないまま ずっと待ってた
皆帰ってった ルララルララ
かくれんぼしてた 君を待ってた

隠し持った誰にも踏み込まれたくない領域、そのファスナー。知ってもらいたいが、絶対に知られたくない、当たり前ですが、隠してるから気付かれないというこのジレンマです。だからこそ、この差し伸べられた手、差し込んでくるその光を、温かくそしてこの上なく寒気として感じたのでしょう。他者に触れる事、そしてその恐怖を描いていると言う面では「tittle of mine」が近いと思いますが、太陽はその普遍性を拠り強調した楽曲となっていて、その点で変化はあるでしょう。「太陽の下」で、笑って心開いたら(そのhidden selfを開示する)ば、また相手のことも自分のことも愛せたかもしれませんが、それをしなかった存在。
誰もがそんな「部屋」、4畳半ないし6畳のアパートを持っています。震えていたり、泣きじゃくっていたり。BUMPに於いて、「部屋」「ドア」と言う単語も初期の段階から出てきます。遡れば「リリィ」「ラフメイカー」、最近では「embrace」「プラネタリウム」にもそんな言葉が出てきますが、どれも主人公は「弱い僕」です。「部屋」の話題はまだ別の機会にするとしますのでここらで一旦切ります。
タイトルの「太陽」と言う楽曲の持つ日常性、とはつまりこういうことです。誰もが太陽の下で、その場しのぎで笑っているその裏で、その誰もがどこかで目の前のその人を恐れ嘲り、そして真夜中には鏡の前で泣いているのです。そして、その弱い自分の部分は他人にはけして見せたくない(歌詞の冒頭で「『二度と』朝には出会わない」とあるので何らかの他人との接触に関するトラウマ(とまではいかなくとも、辛い経験位の事が)があると推測されます)、と。誰にも言えない秘密―これはきっと誰しも持った経験のあることだと思います。だからこの楽曲もまた、他人事としてでなく、誰しも持ち得る、また持っているドキュメントとして他のリスナーが受け取ってくれればと、身勝手ながら思います。
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余談
なんかちょっと日常生活に支障の出そうなテキストに成った訳ですが(笑)、結局これも「度合い」の問題ではあると思います。極端に他者を拒む人達って言うのは、こういう昏い部分をどんどん肥大化させてそればっかりになってしまったのかなぁと勝手に推測しているのですが、反対に日常で円満な人間関係を築いている人はかけら程度(それでも存在してるとは思いますね)だと思います。特に俺なんて人間大好きですから(笑)
太陽と云う楽曲自体が人間のそういう暗いエッセンスを抽出して出来た楽曲なので、必然的にそれを開設したこのテキスト或いは僕個人があまりに極端な存在として受け止められそうなので追記しておきます。そういった面では藤原さん(に限りませんがそういった「自己」をありのままに描くようなアーティスト方)はその誤解のリスクを背負って太陽と言う曲を発表している訳で、強いなーと思います。
また、ミスターチルドレンなんかも全く持って現在のバンプの方法論に近い時期があったなぁと思います。然しながらミスターチルドレンバンプと違う所は、ある程度開かれている物であって、「そういう暗いところがあるけれども、微笑みは絶やさないでいこう」という精神を明言化している様には感ぜられます。バンプは今の所そういう世間体的な潔さは持ち合わせていないように思われます。別にどちらがよい悪いとも云う気はありませんし、どちらも素晴らしいと思います。本文でもちょっと引用しましたが、レミオロメンなんかはMr.children寄りかなと思われます。