2人の家来について

王様の宝物をガラクタと呼ぶ視点で見るならば、「2人の家来」は「単なるおもちゃ」となるだろう。「王様」が、幼児的自己愛のもと勝手におもちゃを家来と見做してるだけ。フロイト心理学的に言えば、ナルシスティックエクステンンションとかいうらしい。
しかしもう一歩論を進め、この2人を両親のメタファーと見る
・夜は王様のそばで眠る
・王様=赤ん坊陛下=子供の八つ当たりをうける(ロボットが蹴り飛ばされてるカット)
・王様が社会的な作業をするのを遠くから見守っている(少々わかりづらいが、お気づきだろうか。この遠近法による小ささが重要である。その視線が、実に暖かくはないだろうか)
3点とそれほど多いとはいえないが、親の要件は満たすように思える。
ただ個人的には王様と一緒に死んで一緒に棺おけに入るあたり、両親そのもののメタファーを一手に引き受けるものとも違うように思えるので、「両親がわり」としておくのが一番無難かもしれない。実際、パトラッシュ(pato-は父性を表す接頭語、更にラテン語のパテルpater;父)やメーテルギリシア語でメーテール;母)のように、物語上で実は一見関係のなさそうなキャラが「親がわり」をしている例はよくある。
追記:
「ひとりごと」で、

ねえ 優しさって知ってるんだ 
渡せないのにもらえたんだ
きっとさ 人と人の心の 外の中だけにあるんだ

とある。「優しさ」は「人と人の心の 外の中だけにある」という。では人でもなければ心も無い「家来たち」と「王様」の間にあるものはなんだろうか?