飴玉の唄 解釈

飴玉の歌について。「神様」と「飴玉」のメタファーについて書き出してみよう。
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神様

「神様」
A.個人の生では及び得ないような「彼方」に及びえている存在のメタファー空間的無限者
B.個人の生を超えて「過去」からずっと「未来」まで続く存在のメタファー時間的無限者
「飴玉の唄」での「神様」は大きく分けてこれらA,Bの2つの性質を持ちます。便宜的に1番、2番という呼び方を使いますが、先に2番のBメロとサビを比較してみます。

何億年も遠い昔から お互いを知っている人が居るよ
そういう1秒を繋いで 僕と生きている君が居るよ

死なない神様

これまで蓄積された「何億年」と比べれば「80年」の生もほんの一瞬の閃きにすぎない。80年のあとは「死」。この限られた時間しか生きられない「僕」と「君」に対しての、無限を生きる「死なない神様」。B.の「時間的無限者」の説明がこれです。
で、構造的に1番も似たような形をしているので、同じ類推が効きそうという見当が付きます。

何光年も遥か彼方から やっと届いた飴玉だよ
そういう1ミリを繋いで 君と出会えた僕が居るよ

見えない神様

前も書きましたが「光年」は距離の単位。那由他に広がる宇宙から見れば人間が活動しうる範囲などほんの1ミリに過ぎない。
・・・んですけど、なぜ「見えない」ことが「空間的無限」を示すのかがよく分からない。スピノザとかの汎神論だとこの世の全ての物質に神性は宿るとされるわけで、寧ろここで神様は「見える」存在とされる。まあたぶん空間的無限のエッジに神様の立ち位置が想定されてるんでしょうね。「空間的無限のエッジ」なんて矛盾した概念ですが、そんな感じのものを仮想しているんでしょう、きっと。で、その果てしない距離ゆえに「見えない」、と。ただこういう解釈だとなんとなく哲学的に違和感を感じないこともないのですが・・・今はあまり触れないでおきます。一応これをA.の「空間的無限者」の説明とします。
このような「無限」としての「神様」を前に、僕は「離れたくないな」という願いを抱いています。つまり、時間(死)も空間も、人間同士のつながりをある意味では断ち切るものであり、それらを恐れるがゆえに、それらを超克しうる「神様」を意識せずにいられない、というわけです。「神様」についてはここまで。

飴玉

「飴玉」=「神様」の対立項=有限・個の隠喩==歴史の集積点/集散点
A.空間的有限
B.時間的有限
詞の物語の中で、「僕」は飴玉を「君」に渡す時こう思い(言い)ます。

何光年も遥か彼方から やっと届いた飴玉だよ

これをどう解釈するかについてなんですが、分子・原子論的に見ればいいのかな?小学生位の頃に、「僕の体を構成している分子のひとつは昔織田信長の体の一部とかエジプトのファラオのもの、或いは聖徳太子→ナポレオン→吉田茂をめぐってやってきたものかもしれない!なんか知らんがそうだとしたらすごくないか!?」、とか思ったことがあるんですが、それの太陽系と人類の歴史を超えたver.と思ってくれればよいです(例がすごく幼稚ですがw)。このように考えると飴玉は、個を超えた歴史の集積地であり集散地であるということが感じられると思います。
「舐めてる間だけその身を擦り減らして甘さを与える、そして舐め終わった末に消滅する」「形状が『玉≒『点』」という性質に着目すれば、「飴玉」が「神様」の対立項としての「人間」「有限の生命」を象徴的に示しているものとわかる。
しかしここで一歩冒険的な解釈をするとすれば、「個を超えた歴史の集積地であり集散地」としての「飴玉」は「無限」「神的なるもの」への可能性を秘めているとはいえまいか。すなわち、「君」を構成した諸々は、「君」の記憶を刻み込みながら永遠に揺蕩うのではないか。さらに言えば、「君」はその固有性を喪って(=「君じゃなくな」って)永遠となるのではないか。

意味などなくても

最後の「冒険的解釈」はちょっと自分でも意味がよくわからないのですが、それ以外の「神様」「飴玉」に関する意味づけはこんなところです。
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まあ意味を求めることも楽しいですが、こんな意味を知らなくたって、考えなくたって、

飴玉食べた 君が笑う

飴玉は甘いし、彼女は笑っています。「飴玉食べた 君が笑う」。「飴玉の唄」で、一番好きな箇所です。自意識とか逡巡とか、そういうものから、ふっ、と放たれる。ありふれた日常への着地。こういうことこそ、とても大事です。