ありがとう、さようなら

直接BUMP OF CHICKENとは関係のない話題になりますが、僕も長らくお世話になっていたバンプのファンサイトの「vivid sky」が、今月をもって閉鎖となります。
僕がこういう風な歌詞の解釈にのめりこむようになったのは、もちろん素晴らしい作品(バンプに限らず)があってこその話ですが、このコミュニティの存在なくしてはありえないものだったとも思えます。
作品を解釈して、それを文字にして…という作業は、とても個人的なことであることは間違いありません。しかしながら、そういった解釈が、どんな場所において紡がれ、どんな人にどんなふうに読まれるのか、あるいはそこからどんな対話が続いていくのかということは、そういう個人的な作業の前提環境として、行為を大きく規定していたということもまた真実です。さわやかなサイトの外観や、扱いやすさ、見やすさなど、誰かと何かを語らうに居心地の良い場所でした。
ただ、僕自身に、私はこんなに歌詞を理解しているのだ、という自己顕示欲が解釈を紡ぐ、対話に参加するという行為を促していた部分も少なからずあった気がします。こういった反省の気持ちもあって、書きこむ機会が少し減ったというのは、一つ上で書いた記事とも少し関連してるのでしょう。

僕にとってのvivid skyの消失は、たくさんのものの喪失を意味しているように思えます。まずもって<サイト>自体がなくなってしまうということが第一義的にあって、それに付随して、掲示板が無くなることで、<ログ>(言葉を交わし合ったという、今となっては痕跡のもの)が全て消え去ってしまうという状況が生じ、過去の自分の存在とか、ほかの誰かがいたことや、複数人で語らう中で生じた対話の流れが喪失されてしまいます。
顔も見たことがなければ出身も知らない。そんな人たちと、言葉だけのやり取りを続けてきたのだから、その「言葉」の蓄積が一挙になくなってしまうのは、非常に致命的であるようにも思えます。逆説的に、「所詮は言葉「だけ」がつながっていた」とも考えられるはずなのに、どうして今自分はこうも「身を切られるように」痛みを感じているのか?

過去ログを振り返ってみると、かつての自分がこのサイトで本当にたくさんの人たちと言葉を交わしてきたという歴史が、意義とか意味とかを越えて、とても大切な、かけがえのない物としてかみ締められてきます。いま、この人たちはどんなふうに過ごしているのかなぁ、とか、思いを馳せたり。でも、そういう風にして、この痛みは和らげられるのかもしれませんね。

なくなって初めてその大切さが分かる、みたいな歌詞がバンプの歌の中にもありましたが、今まさにそんな気持ちです。
最後になりましたが、管理人のナオさん、長い間本当にお世話になりました。そして、ありがとうございました。