ゼロ〜絶望的な祈り〜

終わりまであなたといたい それ以外確かな思いがない
ここでしか息ができない 何と引き換えても守り抜かなきゃ”

傷ついて、セカイに追いやられて、互いを呼び合おうとする二人。そんな断末魔のラブソングが紡がれているのが「ゼロ」です。

その二人の影姿は、ある種のリアリティを持って、切実に響きもする。正しさ”らしき”ものは存在するけれども、それを信じることはできない。しかしながら、かつて世界に敷き詰められたその秩序に抗うこともできず、力を持たない二人はただ名前を呼びあうだけしかできない。

一方で、

配られた地図がとても正しくどこかへ体を運んでいく
速すぎる世界ではぐれないように 聞かせて唯一つのその名前を

飛べない生き物 ぬかるみの上 一本道の途中で見つけた自由だ

と歌われているように、恣意的に定められたに過ぎない世界の中で、似たような傷を抱えた他者が互いを慰めあうだけの歌とも評価できる。

物語の主人公たちに同化して、悲劇を追体験カタルシスに沈む。それもまた、たいしたことない日常をときにドラマチックに彩り、時に安息なるすばらしき世界として認識するために必要な処方ではあります。
けれど、使いすぎには注意をしなくちゃ、自分の心で世界を感じなきゃ、という提言もまたあってしかるべきでしょう。

ひょっとしたら、配られた地図の正しさなんて、なんてことのない枠組みにだまされているからなのかもしれない。あたりまえに、世界には2人だけしかいないわけでもない。もっと声高に自分の名前を叫べば、たくさんの似たような誰かが集い始める可能性を考慮しなくてはならない。

諦めの感情を前面に押し出している歌ではないのは間違いありません。たとえばIt's wonderful world以降のMr.childrenに典型的な、端的には「彩り」という曲のような、大きな夢はかなわなかったけれど家族のことを大事にしてそこそこの生活に確かな喜びをかみ締めていこう?というような提言を、バンプはしません。諦めの感情はすでに前提とされたうえで、なお悲嘆に溺れる、あるいは魂の平穏と決別してあえて激情とともに燃え尽きる。それでもなお、世界の枠組みと向き合うことはけして歌いません。Orbital period以降のバンプのモードは「世の中は絶望的なんだよ!だから絶望的なツラのまんまでかまわない、とりあえず歩け!んで死ぬまで一緒に生きよう!それで何とか切り抜けられるから!!」です。

自分自身も、ひょっとしたらいつの日にか客観的に見て「ゼロ」の主人公になれる瞬間が来るのかもしれない。でも少なくとも今の自分には、遠く離れたところから二人を眺めることしかできない。ある程度の距離を保つことが彼らに対して倫理的な心的態度なのだと思っています。