「記憶と引き換えにして」

その涙と引き換えに
その記憶と引き換えに
この唄と引き換えに 僕らは行ける

ここでは辛い思いや何かを切り捨てた過去「の記憶」が前進を可能にしている。
もし過去は現在と不可分であるという立場を取れても、彼にとっては過去が「僕」を支えることは無い。
「僕」を支えるとすれば主観的想念としての「記憶」「涙」だろう。客観的な過去を記憶し、かつそこからどのような意味論を導き出したかが前進に関与しうる。
むろん、「記憶」「痛み」がありとあらゆる前進の必要条件となるわけではない。ここからは歌詞そのものが持つメッセージとは異なるものであるが、「温かくて失い難い光」をそうでないものとして再定義する、あるいは「失い難い」条件を再設定することにより、抑鬱状態を抱え込むことなく前進することが可能であると思われる。言い換えれば、新たな基準に基づいた「過去」の解釈の変更によって「記憶」を書き換え「痛み」を抹消する。
この方法論は所謂洗脳プログラムとして日本では80年代にビジネスマンに多く利用され、米国のエグゼクティブは現在でもこれを用いた療法を行っているという。他者(the other)は敵であるパブリックの非日常性を生き抜くため、その場その場に応じた不断の自己フレームの書き換えをおこなう―でなければ抑鬱状態に精神が耐え切れ無いからだ―ことは非常に合理的といえよう。
近代的な自我同一性(いついかなる時も変わらざる自己)はこのプログラムの過程では放棄されたままである。条件付の所々で、適合するフレームを使い、行動する。と、言うと一般人の生活にそのまま当てはまるようでもあるが、実際に過剰流動性社会への適応としての解離化が人格障害を起こすケースもしばしばある。
さて、切り捨てた「記憶」と切り捨てた「自己」をどのように付き添わせていくかの問題に対して、「この唄」がどのような役割を果たすのか。絶えず記憶と自己を合致させ抑鬱状態に耐え自我を保つことを勧告する、と記述するのはやや舌足らずであろう。絶えず記憶と自己を合致させ抑鬱状態に耐え自我を保つ「ことは美しいこと」だと勧告する、という記述がそぐわしい様に思える。要点は、享受者のナルシシズム(自己愛感情)を喚起するということである。「手に入れるために捨てた」というテーゼの表現として「同じドアをくぐれたら」があるのならば、同様にして「こころ」を配置することも可能だろう。が、「こころ」には「同じドアをくぐれたら」のような自己肯定感はなく、代わりにお嬢さんを選んだ結果としてのKの自殺が生々しくあるだけであり、先生は苦悩を死ぬ間際まで続ける。「同じドアをくぐれたら」では苦悩は「涙」「記憶」として"美化"され、「こころ」では苦悩は苦悩として"生々しい"。言葉の側によりすぎたが、ウインドチャイムやワルツのリズム―総じてその音楽は胸を掻き毟りたくなったり壁に頭を打ち付けたくなるようなあの衝動からは、余程遠いものであろう。
ナルシシズムの喚起による前進。メタレベルで解釈した場合、こう記述できる。