王様について

ひとつのテキストにまとめ上げる能力と時間がまだ僕に無いので、部分部分で小出しにしてきます。その際、他の文脈からの引用が多くなると思いますが、ひとえに僕の怠惰です。既存の概念に載せて作品を解釈することは、効率的ではあるかもしれないが本義からすればあまりよろしいことではない。概念と作品の結びつけの作業だけで、作品そのものを綿密に追うことはおざなりになりがちだからです。そこで失われるものもあるでしょう。「カルマの歌詞の意味が分からないやつはアビスやれ」なんて物言いを良く目にしますが、真っ当に解釈をしようとする人にとっては全く足しにならないアドバイスであることは、言うまでもないでしょう。そして、心理学者や社会学者の学問成果も所詮はひとつの「物語」ともいえる。だから引用することそれ自体によってはその解釈の正当性は生まれません。それでもこの手法をとる理由は、冒頭にも書いた通り僕の怠惰によるものです。ながくなりました。ではまず、「王様について」
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・王様=「赤ん坊陛下」
 フロイトの本来の記述では、「両親にとって子供はかつて自分が子供時代に自分のことをそう思い込んでいた『赤ん坊陛下』である。子供は(中略)期待を向けられる。そうした愛は、実は両親自身が幼児時代に抱いていた自己愛の再生なのだ。」とあるように、「赤ん坊陛下」とは実際の乳児を指す。だが、上記の引用を言い換えてみれば、自分の子を「赤ん坊陛下」とみなす両親の中にも昔自分がそうであった「赤ん坊陛下」のメンタリティが埋め込まれており、それがこの出現により発現した、とも解釈でき、「赤ん坊陛下」を(子を持たなくとも)世間多くの人々の深層に潜み続けているイコンと位置づけられよう(ここに世代を超える“自己愛の伝達”が存在している)。
 とするならば、その名前からしても王様=「赤ん坊陛下」の同値関係が成り立つように思われる。王様=陛下はまず疑いようもない点だし、実際に「王様」は、ないものねだりをしたり、おもちゃに八つ当たりをしたり、平素よくお昼寝をしたり、苺ショートが好きだったり、夜遅くまでおきてるのが苦手だったり・・・多く幼児的=赤ん坊的性格も見られる。ここにひとつ、フロイト心理学と星の鳥の共通点が示されたことになる。
 しかし相違点も存在している。冒頭の

王様がなんで王様かというと王様が王様を王様と決めたからだ

に注目すると、フロイトの、親から与えられるものとしての自己愛とは齟齬するのがわかる。フロイトの規定に寄れば、自己愛とは親やそのまたずっと上の世代からずっと受け継がれていくものと記述できる。一方王様が持つ自己愛は、王様が自分を王様と決めたから、すなわち全て自己決定によって生じている。
また物語中に実際の両親が出てこない点*1も特筆事項であり、普通これくらい小さい子ならば一人で眠ってさびしくなるなんてことはないはずである。親からの愛情を受けず成長した子供は多く自尊心をもてない、というデータもある(全ての当該者がそうであるというつもりは全くない)。しかしそれでも人並み外れた自尊心=自己愛を王様は持っているのであり、フロイト心理学に照らし合わせるとかみ合いきらない部分も出てくるというのもまた事実である。

*1:「2人の家来」をどう見るかにもよる。詳しくは近いうちに。