新曲ですぞ

お久しぶりです。もうめっきり更新しなくなって久しいですが、というのも僕の中でBUMPについて語るということの重要性が、相対的に下がっているからでしょう。
ただし、あくまでテキストにして誰かに伝えるという欲望が低下したというだけで会って、バンプの詞それ自体について日々考えをめぐらせたり、自分の日常に当てはめてみたりとかは、更新を頻繁にしていたころとほぼ変わらないレベルで行われています。
今日も、バイトの研修の帰り、吉祥寺の町中ですれ違った女の子が風船を持っていて、なんとなく「涙のふるさと」が心に流れてきたり、空を見上げたり。



ただまあ新曲出たら流石に語りたいですがなwwwwwwwwwwwwwwwww



「R.I.P.」に「Merry Christmas」ですね。10/27(火)"SCHOOL OF LOCK!"で"R.I.P."を初オンエアーということで、まだもう少しありますが、MUSICAとかのレヴューを見るともうwktkが止まらないです。

新星堂とかのレヴューを見てみると、

過去、現在、未来の時間軸を縦横無尽に駆け抜け、「今を共に居られる」ことの尊さと恐ろしさを描いたメッセージソングであり、BUMP OF CHICKENならではの疾走感溢れるバンドサウンドが聴く人の感性を激しく揺さぶる、まさに真骨頂のロック・ナンバー!

過去、現在、未来とかのキーワードを目にして、ぱっと思いつくのは時空かくれんぼとかでしょうか。かつての「未来」に隠した自分と向き合い、そういうふうにして「現在」を逃げていた自分自身を「過去」のものとして決別する。終わりと始まりがあやふやな「今」という時間を、決然とした意志(―約束)でもって捉えていくという大筋には*1、確かに共通点はありそうです。
が、一応僕の解釈だと、この曲はあくまで自分自身(通時的には他者となるわけですが)との自己内対話の曲になります。きっとR.I.P.は自分でない他者との関係性や、出会い、別れに関する曲になるのでしょう。とすると、「僕らの時計は 止まらないんで動くんだ」と締めくくられる「supernova」の「止まらない時間」を、あえて断片化し再配置を行い、その尊さを歌いあげるような曲とも想像できそうです。「安らかに眠れ」というタイトルからも、終着点を想定した上での「今」が歌いあげられると予想され、「オンリーロンリーグローリー」とか「飴玉の唄」のようなエッセンスも含まれるのかなぁと。挙句、曲調が、サイケ、プログレとかカオスすぎだろwwwwwww*2

merry christmasという曲名を聴いたときは、ベタ杉wwwwwこれはもう駄目かもわかんねwwwwwwwwwとか一瞬思いましたが、レビュー見てみるとやっぱwktkです。ただ、これに関してはどういう歌になるのかあんま見当がつかないですね。


というわけで久しぶりの更新でした。次お会いする時はR.I.P.解禁後になるでしょうか。

*1:結構適当に書いてますが

*2:耳コピしたいけど、できるかなあ。。

5か月空くのはさすがにあかんやろー、忙しさは言い訳にならんやろーとか思い、書きますw
近頃(というか当初から)カタいものばかりだったのですが、ちょっとこういうのばかり書いてると自分の中のハードルが上がってくるもので、それに対して果敢に挑戦するという選択肢もないわけではないのですが、背伸びはやっぱしんどいなと最近つくづく思うので適宜日常に即した感じのことを混ぜてこうかなと思います。
一個下の2か月前の記事によるとどうやら僕はバンドサークルに入っていていずれバンプのコピーをやりたいともくろんでいた模様ですが、幸いにも念願かなって12月18or19日に、内輪向けのイベントですがやることになりました。もちろんポジションは藤原な。スコアも出たということでorbital period曲を中心にやります。12月19日と言えばもう言うまでもなくorbital periodの発売日でありつつ、in store は18日ということでいずれにしてもMCネタには困らない。僕の記憶、あるいはこのブログのログを見れば、この時期はお茶の水のS台予備校でセンター試験一か月前を迎えていたはずですが、なぜか引き寄せられるように11時にお茶の水ディスクユニオンへ向かい、パッケージを手に取り、そのまま予備校のトイレでパッケージを剥いて歌詞をよんでいました。大学入ったらバンドとかもええかなー、と思っていましたが、ジャスト一年後にその時の曲を自分が歌うとはさすがに想像付きませんでした。まさにorbitalな偶然です。
演奏する曲は「メーデー」「才悩人応援歌」「ひとりごと」「涙のふるさと」です。あ、PAに「星の鳥」。いやいやかなりおいしいセトリwww、と思いつつ、いざ眺めてみると少し感慨にふけるところがあります。感慨というか不思議な感じ。今までずっとリスナーであったり解釈者であった自分が、立場が全く変わって発する側に回る。もちろんこれまでやったバンドもそういう高揚感みたいなのはあったけれども、バンプの場合、異常に「歌い手」と「聴き手」の境界が際立っているものだから、高揚感が違和感に達してしまう。パーソナルなメッセージを受け取って、それを中継してもう一度歌うことになる。
メーデーでは、以前にも書いたように、男の子である僕は残念ながら藤原基央と「口づけを預け合」う気になれなかったのですが、なんとも皮肉なことに今度はそう歌う側に回ってしまったし、自分だけが聴いた「才悩人応援歌」を「大きな声」で歌う時がはやくも来てしまうというわけです。「ひとりごと」については、最近「仕掛け」の一つが分かった気がしてるんですが、これに気づいてしまうとなんか俺がここ歌うのはちょいちげーなー、とか思ってしまう。「涙のふるさと」は特にそういった歌詞の上での違和感はないですがギタボやべえwww\(^o^)/
まあなんにせよ楽しみですな。

30000pv


自分で踏んだというw
ここのところ学校のサークル活動*1が忙しくて記事書いたりができないのですが、それでも日々の中で詞について思いをめぐらしたり、目の前にあるものが結びついて見えたりすること、これまで通りよくあります。何はともあれライフワークですねー。

*1:コピバンサークルですwwいずれバンプもやります

女の子と弱い男の子のための唄

「老」「若」「男」「女」によって、歌の響き方(=享受形式)は異なる。もちろんバンプに限ったことではないが、今回男子と女子の享受形式の差異について思うところがあったので書き留めておく。
ここでの「響き方が違う」ということはどういうことか。一言で言えば主体か客体であるか、という差である。
具体的に「メーデー」に即して考えてみよう。
メーデー」の流れを概略すると次のようになる。
「僕に嫌われた僕」を沈めたままにしている「僕」が、「僕」と同じように「君に嫌われた君」を沈めている「君」と対峙し、互いの沈めた自己を相互に承認する物語。
ここでの登場人物は、沈められた部分を除くならば二人、「僕」と「君」である。
ふつう「僕」とは男性が自分のことを指すときに使われる代名詞であるから、「僕」は「男(の子)」だろう。では「君」の性別は?「手を繋ないだら」「口付け」などはある種の比喩であるにせよ、やはり一般的に、無意識のうちに、男女の間で交わされる営みであり、無意識のうちに「メーデー」に男/女の図式を当てはめるのがふつうであると思う。
とするならば、男の子は「僕」のほうに自己を投影し、女の子は「君」のほうに自己を投影するのが普通だろう。天体観測やスノースマイルは、物語としての自己完結性がメーデーと比べて強いため、このような差異はあまり現れないのかもしれないが、メーデーに関しては、というかユグドラシル以降の楽曲に関しては、より作者と聞き手の直接的なコミニュケーションツールとしての性格が高まっており、このような投影をさせるのがバンプの狙いであるかのようにすら思える。(もちろんメーデを物語の外部に立って、自分を重ねたりせずに眺めることも可能で、まあ「普通の男の子」はこういう見方をするんだろうなと思う)。
これは僕が最初「涙のふるさと」に一抹の拒絶感を抱いたことと通じている(ちなみにメーデーにも感じた)。涙のふるさとの「彼も見てきた空」という部分にくると、どうしても「君」が女の子のように思えてしまうのである。「俺もずっと待ってるよ」の歌い方も、なんとなく女の子に向かって歌いかけているようにも感じられた。「彼」に関してはべつに男が男のことを待っていてもいいわけだし(とはいえ、君が男であるか女であるかは詩のないようについて大きく影響をもつところではある)、全体としてこの曲が「若」を想定して作られたものだと理解してしまえばフェミニンさもなんとなく理解できる。小さなころは男の子も女の子も優しい言葉遣いで保育資産に育てられたろう。それと同じ感じである。
また、ハンマーソングと痛みの塔においてもこの傾向は顕著である。ここでははっきりと傷みの塔に登っているのが「女の子」であることとが明示されている。

そうか私は特別なんだ

「私」である。もちろん日常的には男性が「私」ということもあるが、ここでは明らかに女性がその使い手=物語の主人公であるということが想定されていよう。しかし自傷的な女性がこの曲の主人公だとすれば、男の子は完全に阻害されているかというとそうでもない。より直接的に歌われている、風刺されている、と感じるのはある種の女の子であろうが、男の子も物語の語彙部に経ちながらもなお、風刺されている、すなわち「私」に自己を投影するものは少なくないだろう。男の子の中の女々しい部分―弱い男の子の「僕」の心にちくりとしてものが刺さる。
メーデーに立ち戻る。男の子は「君」と「僕」のどちらに心をゆだねるのか。あるいは外部からの物語の鑑賞者として間接的に意味を享受するのか。女の子は(特に熱狂的なファンは)「君」の側その立ち居地を限定されよう。「メーデー」という曲を聴いて、「藤君はいつもあたしに手を差し伸べてくれる…」。社会的な文脈でなく歌詞それ自体を相互浸透の媒介としているものの、典型的な歌い手と聴衆の相互浸透の形が成立する。
しかしこれに対して男の子はずいぶんと開かれた可能性を持っているように思える。それはきっと、手を差し伸べる「僕」としての、おんなじように沈めた自分をもち救難信号を発する「君」としての、そして物語の作り手として、常に自己を相対化し物語の外部にありながら内部をありのままに体験する「作者」としての『藤原基夫』に自己を投影するところが多いからであろう。
一応自分は性別は男なんですが、こういう悩みを持っているというわけであります。


追記:School of lockの影響について。
YOUNG FLAGのイベントでメーデーを初披露するとき、「みんなの顔を考えながら作りました!」と藤原基央さんは言った。手紙を送るような視聴層は大概「女の子」なわけで、無意識的に彼女たちの顔が浮かんだからメーデーはこういうつくりになったのではないかと思っている。つくりというか、少なくとも男の子である僕はささやかながら疎外感をを感じてしまったのである。たとえばグングニルとかは完璧に男の子の歌のように思えるし、車輪の歌やくだらない唄は君においていかれる僕=社会に阻害されつつある弱い男の子の姿を描いていて、女の子ばかりがスポットライトに当てられているわけはないのだけど。

結局「ギルド」は加藤を助けらんなかったわけだよなー

そんな当たり前のことをタイトルにしても。6月8日の秋葉原での連続通り魔事件の実行犯が、bbsにギルドの一部を抜粋して書き込んだという件について。


書き込み、事件発生からもう2ヶ月が経つ。*1事件にコメントすること自体がいまさらだし、その中でも、掲示板の数千の書き込みの中から2レスだけピックして考えを連ねることが事件自体にどれだけ意味あることなのかは分からない。ていうか事件に関してははっきり言って、ない。意味があるとすれば、引用された側について。その意味を僕が語ろうとすれば、必然的にバンプオブチキンという物語の中にあのむごい事件を回収するということになる。すなわち、社会とバンプを関連付けて話すことになる。今まで敢えて避けてきた話題だ。そして今回はその蛮行(事件に対しても、バンプに対しても)を為す。歌詞全編と加藤智大を全面的に照らし合わせて検証することは、誰が聴いても少し想像力を働かせれば簡単に結び付けられることだし、いちいちやるにはあまりにベタすぎるし表層しか扱えないので、しない。曲と彼の共通性的なものは、前提として話を進める。


以下が彼が「ギルド」を引用した部分だ。

[2479]
06/05 06:47
美しくなんかなくて
優しくもできなくて
それでも呼吸が続くことは許されるだろうか
[2480]
06/05 06:49
きた
のった
[2481]
06/05 06:50
やっぱり時期的に限界か
[2482]
06/05 06:54
お前らは明日がきてほしいか?
来てほしいだろ
幸せだもんな
[2483]
06/05 06:56
その場しのぎで笑って
鏡の前で泣いて
当たり前だろ
隠してるから気づかれないんだよ

ネットで事件について語る人のうちで、「ギルド」引用部分を加藤智大自身が考えた言葉と勘違いしているような人もいた。そんなに引用部分は掲示板のレスの流れに沿っていたのだろうか。ちなみに、引用の30分前は、このような流れだった。

[2463]
06/05 06:17
作業場行ったらツナギが無かった
辞めろってか
わかったよ

「作業場行ったらツナギが無かった」ことを自分が職場の仕事仲間から疎外されていることと解釈した彼は、異常に腹を立てて、その日の仕事を放棄して帰宅しようとした。帰りの電車待ち、電車内で打ったのが引用部分、それは職場の仕事仲間からの着信を浴びている時間帯のことだった。帰宅後、

[2613]
06/05 18:57
どうせすぐに裏切られる
嫌われるよりなら他人のままがいい
[2614]
06/05 18:57
俺には支えてくれる人なんか居ないんだから
[2615]
06/05 18:59
一歩踏み出したら、あとはいくだけ
[2616]
06/05 19:02
とりあえず、明日は頑張ってみるよ
[2617]
06/05 19:03
いや、仕事にはもう行かないけど
忙しくなりそうだ

とレスして、就寝、翌日、事件で使われたナイフを購入しに行くことになる。

BUMPの一つのスタンスとして、「手を差し伸べ続ける、取るか取らないかは君の自由」というものがあった。僕らはあくまで手を差し出すだけで、能動的に動かなくちゃいけないのは君のほう、でももしも手を伸ばしてくれるんだったらいつでも助けになるよ。「メロディフラッグ」の詞中にでてくるものでもあるし、ユグドラシル期のインタビューではそれをキャッチボール中の大暴投になぞらえてさえいる。曲がすごいんじゃなくて、そこから元気を引き出した君のほうがすごいです、みたいなことも言っていた。こんなスタンスを確認するまでもなく、常識的に考えてバンプが今回の事件で嗤われ忌避される言われはない。

でも一つの事実として、「ギルド」は加藤智大を助けきれなかったというのは、ある。加藤は加害者だろうに、「加藤智大を助けきれなかった」なんて目茶苦茶な表現をしているとは自分でも思う。だが、彼にとって今回の事件は自暴自棄の”自殺”としての意味合いもあったはずだ。計画的に、かつ複数の人間を意図的に殺せば死刑は確実なわけで、彼の一番の目的が自分の死でなかったにしても「死んでも構わないや」という心情は彼の中にあっただろう。それは、引用部分である2サビが終わり、間奏を経たのちの「構わないから その姿で 生きるべきなんだよ*2」という願いが結果的に無効だったことに等しい。
結果として「気が狂うほどまともな日常」の中で生きる彼は、秋葉原のあの「非日常」をもたらした。
加藤の引用がたんなる思いつきの恣意的なものにすぎないとみることもできる。でも、4年近く前に発表されたアルバムの、しかもシングルカットもされていない曲の歌詞が、部分的であるにせよ一字として間違うことなく引用されたことを考えれば、そのひらめきは引用者の楽曲に対する一定の親密感に支えられていると考えるほかない。さして好きでもない曲が、いくら自分の状況に合っているからいって、ぱっと思いつくわけはないだろう。いわんやこんな切羽詰まった状況、その楽曲が身体に刻まれていなければ。そしてその親密感は、彼が「ギルド」という曲を初めて聴いてから今回の引用に至るまで、曲と自身をふれあわせてきた経験に由来するだろう。その経験の過程で、

愛されたくて吠えて 愛されることに怯えて 
逃げ込んだ檻 その隙間から引きずりだしてやる
汚れたって受け止めろ 世界は自分のモンだ
構わないからその姿で生きるべきなんだよ
それが全て 気が狂うほどまともな日常

と励まされてきたことも十分に想定しうる。それまで状況描写あるいは独り言に徹してきたかにみえた歌い手の姿が、あたかも一気に眼前に開けてくるかのような箇所だ。
加藤智大が「ギルド」に対してどれほど深い思い入れがあったのか、具体的に知ることは不可能だ。でも、少なくとも「浅からぬ」感情を抱いていたとは言えるのではないか。単なる文章の引用と違って歌詞の引用とはメロディーの引用を含みうる。すなわち、感情的な側面が強い。映像は場面を描き、言葉は観念を描き、音楽は感情を描くという図式において、歌詞の引用とは言葉と音楽の間に位置する。だから他のレスとは少し性質が違うのは当たり前で、それが今回この部分にスポットライトをあてたことの正当性にもつながるかもと今思ったが、話がそれた。
加藤は、「ギルド」という楽曲に浅からぬ思い入れを抱き、励まされてきた(この「励まされてきた」という表現は、必ずしも「加藤が前向きになってきた」ということを意味するわけではない。彼の感情がどうこうというより、むしろ、バンプの側がそういう励ましにあたる行為をしてきた、ということに力点が置かれる)。それは「いずれにせよその瞳は開けるべき」で「構わないからその姿で生きるべき」という歌だ。ささやかな救いであったかもしれない。だがそれは、結果としては届ききらなかった。
掲示板には以下のような書き込みもあった。

[2760]
06/06 09:33
こんなメールが来た
>ネガティブな言葉は使わない方がいいと思うょ
面白くなくても☆笑顔を作ったり☆願いや希望を常に想い続けたり☆ポジティブに過ごすほうが☆ずっと楽に生活できるはずだょo(^-^)o
難しいかもしれないけど頑張ってね〜(^_-)-☆
[2761]
06/06 09:36
いちいちごもっともなんだけど、それに疲れたの
幸せ者にはわからないだろうけど

「悲しいんじゃなくて疲れただけ」というギルドのフレーズが思い浮かんでしまうところでもあるが、いわゆる「励ましメール」に対して、加藤がシニカルに言及している。おそらく女性だろうこのメールを送信した人が、この書き込みを見たらどう思うか。常識的に考えて「関係ない」と思うか。あるいは「あたしはちゃんと励ましたし」と自己弁護するか。あるいは、言葉もなく思い悩むか。そんなのは分かるはずもない。
しかし、責任云々に関わらず、「止められなかった」ということは事実として確かに残る。この「止められなかった」事実に対してどういう感情を抱くのか。
この「励ましメール」と同じようなことが「ギルド」にも言える。ちなみに言うと、この事実は一般の誰にも当てはまることで、僕自身にも「責任はないが止められなかった」という言い方は当然出来る。
加藤がギルドを引用したことについて、その時彼が何を考えていたのかはわからない。ちょっとぴったしのいいフレーズ思い出した、俺気が利いてるな、ちょっとでも俺に共感してもらうために使ってやろう。生きるべきなんだよ。不細工に生まれてさえなければ。愛されたくて吠えて愛されることに怯えて。それでも皆が俺に檻に入ってろってさ、不細工だから。汚れてんのは全部俺の方。生きるべきなわけがない。
分からないはずなのに、こんな暴力的で無意味な妄想をどれだけしたか。2ヶ所目の引用を終えてから次の書き込みまでの4分間、実際は2分間、その時何を考えていただろう。確かなことは、彼が引用した俺の大好きなあのフレーズが、「ツナギ事件」の直後の、すてばちな精神状態の彼の頭の中で流れてたってことだけだけれど。
個人的には、やる瀬のない感情が残った事件だった。


―――――
いまセットリストを確認したら、RIJFではギルドを演奏したみたいだ。そのブログではたまたま、ギルドは予想外だった、みたいなことが書かれていた。うーん、さすがに事件と結び付けるのは邪推か。
なぜここまで今回の件について考えたかというと、fujikiでこんな回があったのがすごく印象に残っていたというのがある。
ファンからの「ライブ感動しました バンプが好きな人に悪い人いませんよね!」的な内容のレターに応じて、
「ライブに来てくれてありがとう.そしてごめんね 悪い人がいないなんて思いません。良い人しかいないなんて思いたくもありません あなたがもし今後人を殺すだのだますだのして、自分で自分を悪い人だと思ってしまっても、ライブに来てほしいです.CDを聴いてもらいたいです.「今後」ではなく「現在」すでにそういう「悪い人」なお客さんもいるかもしれない.そんな人に「君は悪くない」なんて、何も知らない僕には言えない.だけど.ありがとう.アンタの善悪なんてどうでもいい.ライブに来てくれて、CDを聴いてくれて.ありがとう.僕に必要なのは「良い人」じゃなくて「聴いてくれる人」です.」
と書いていた。これはorbital period発売前のツアーでのことだけど、このころから今みたくコミュニケーション志向で行こうと考えてたんだろうな。個人主義的なスタンスは変わっていないんだろうけど、ユグドラシルが出たころと比べて人とのつながりを歌った歌が多い。さらに進んで射程を集団にすら設定している。ライブの歌詞変えでも、アリーナなりホールなりライブハウスなりを一つの包摂の場として見て、「僕ら」という表現をやたらとつかっている。CDでは「僕」と「君」、ライブでは「集団」を想定した表現をして、使い分けている。もちろん基礎となるのはミクロな承認だけれども、マクロな包摂の持つ力っていうのも意識しはじめたのだと思う。承認の重要性はおそらくファンレターでそういうメッセージがたくさん届くから、まあ承認というか、繋がりたいという趣旨のメッセージが。で、包摂性に関してはスクールオブロックの経験も大きいんじゃないだろうかと考える。ラジオって内省的でありつつも発信者と受信者間の関係の他に受信者間のつながりも強く感じさせるメディアで、藤原先生の講義の最終回はその意味でミクロな承認とマクロな包摂を同時になしえちゃうようなそういうコンテンツだったように思える。その半面で、包摂が酷薄な排除をもたらすこともあるのだけれど…。
排除だったかどうかは別として、今回はバンプ、というより、ギルドの持つこの承認と包摂に加藤智大は留まることができなかった。でも、ありそうもない話ではあるが、そこで引きとどまる可能性は、0ではなかったと…思う。客観的に見て彼のおかれていた状況を考えると限りなく0に近いけど、卑近な例でいえばもし彼がバンプ自体に興味があったのなら、10日待って新曲を聴いてからにするとか…。
これも分かるはずのないことだけれど、そして知る必要のないことだけど、バンプはこの件をどういう風に受け止めたんだろうか。意図せずして、社会問題と微かに接触してしまったギルドという曲。
Orbital period が出てからわりとすぐ、鹿野淳が提言していたことだけど、僕も同じことを考えていた。「ハンマーソングと痛みの塔」のシングルカットだ。実は1stアルバムのころから社会的なマッチョイズムは強かった。ノーヒットノーランとかナイフは特にそういう社会的文脈で読み替えることが可能だし、くだらない唄はマッチョの対極だが、そのナイーブさがかえってマッチョを弱い男の子たちに対して開かれたものにすることができるだろう。
一周回って手に入れた表現のスキルを携えて、大いに臆しながらもう一度外に向かって走り出すという選択肢。その方面での期待が僕は一番強い。

*1:書き込みおよびまとめについては2008年6月8日に秋葉原で発生した通り魔事件 まとめwikiを参照。

*2:ライブのアレンジでは「生き延びてくれよ」と、願いとしてをより直接的に訴えかける表現になる

6/22日の記事について

プレゼント、「嫌いだ 全部 好きなのに」についてに対して、以下のようなコメントをいただきました。

通りすがり 2008/07/11 22:06
素直に聴けば、「嫌いだ 全部 好きなのに」の「全部」は、自分の全部とは考え難いかと思います。自分と考えるより君のと考える方が自然だと思います。

うーん、まず「素直に聴けば」というのが、なんかまるで俺が穿った解釈を狙うやつみたいに思われてるようで、ちょっっっっぴりへこむ。視聴機の前で初めて聴いた時からこの考えが有力だったので、そういう意味では素直に聴いて出てきた解釈ではあります。実は当時の自分自身の心境というか考えてたことがまさにこういう感じで、だからこの解釈に流れていった面もあるでしょう。ただ理屈付けしてここに載せる段階でちょっといびつになったかとは思う。
では通りすがりさんの考えについて僕もひとつコメントします。「君」というのは、「プレゼント」中で「ずいぶん赤い目をしてる」人のことですよね。でも、こういう目をした人に対して、「嫌いだ!」とか、しかも初対面で、言ってしまうのは、いくらそのあと「(君の)全部 好きなのに」とフォローするにしても、危なすぎると、素朴に思うのですが、どうでしょう。。

「全部」=「自分が関与してきた物・事・人」とかも考えてる

リリースから1ヶ月経って、どうも「全部」が「自分の全部」っていう意見は少ないようで、「全部」は「世界全部」とみなす意見が多数派なのかな、と言う感じがします。「世界全部」というか、自分が関与してきた物・事・人、ってなところ?「環境」とでもいえるかな。そんな個人的なものを「世界全部」と言ってしまうのは乱暴かもしれないが、人一人の世界がそういう個人的な出会いで支えられてるというのはsupernovaでも「誰かの世界はそれがあって作られる」と歌われているところです。この「自分が関与してきた物・事・人」というのは、ギルドでいうなら「思い出したんだ 色んなことを」の「色んなこと」、「向きかえるかな たくさんの眩しさと」の眩しさにあたるのかな。

要は何を原因とするか、力点のちがいではないか

実は個人的に「全部」=「自分が関与してきた物・事・人」に傾きぎみなのですが、それでも「全部」=「自分の全部」という解釈を捨てきれない気持ちもあるのです。
ギルドで、

汚れちゃったのはどっちだ 世界自分の方か

とある。世界が自分に無茶な適応を強いるのか、自分が世界に甘すぎる期待をしてるだけなのか、という問いを発してる部分です。
で、プレゼントでは、

世界に誰もいない気がした夜があって
自分がいない気分に浸った朝があって
目は閉じてるほうが楽 夢だけ見ればいい
口も閉じれば 呆れる嘘は聞かずに済む

一応この部分が「壁を作った」経緯の部分になっているんだけど、そこに世界自分が並列されて挙げられてる所が非常に引っかかる(ちなみに、「世界」と「実存」がOPのテーマと、わたしは標榜してます)。彼が「扉」と「壁」を作った理由について考える時、それが「(現実)世界の厳しさ」から来てるのか「自分の弱さ」から来てるのかは、必ずしもどちらと言い切ることは難しいでしょう。さっき引用したギルドの歌詞もそのことについて歌っているのです。

そういったことをふまえて、

壁だけでいい所に わざわざ扉作ったんだよ
嫌いだ 全部 好きなのに

をみてみると、素朴に、
「全部」=「世界」が理解しうる解釈であるのと同様に
「全部」=「自分」も十分考えられる解釈であるという気がしてくるのです。

(うーむしかしなにか重大な点を見落としているような・・・。)


とりあえず、それでも「全部」=「世界」解釈に傾いているのは、そのあと「君はまだ君自身をちゃんと見てあげてないだけ」との関連について、「世界へ向かい合いきれないのは君自身をちゃんと見ていないから」のほうが「自分を愛しきれないのは君自身をちゃんと見ていないから」よりもその後の「これから何をするんだい?」に繋がるからです。まあそのまんまみてもちょっと後者は変だわな。

結局あまりまとまりませんでしたがこんなところでご勘弁を。大学生はこれからがテスト・課題本番なんだぜ・・・!