embraceについて〜BUMPにおけるエゴイズムの究極表現か〜

人それぞれ思うところはあると思うが、まずこの曲を聴いて感じたのは「抱擁感」とそれに伴う「至福」だった。大体の人はこんなことを考えたりするのではないかと思う。

こんな事を書くとまるでそれを否定しているかのように思われるかもしれないが、まず間違いなくその解釈は間違いではなく、そして素晴らしいものだということをまず言い足しておく。



しかし、どうも何か違う、というかそれだけではないような気もしてくる。この曲でそういう風な捉え方をしてしまうとなにやら深みがない。さらには藤原氏も雑誌のインタビューで「残酷な唄ですよね」なる事も言い残されている。

この曲には何か深い意味が隠されている。
そう考えた時、「残酷な唄」というのが手がかりになったのは言うまでもない。なるほど残酷とはそういうことかと気付いたのは、すぐだった。

先程も述べたように、僕はこの曲に『「抱擁感」とそれに伴う「至福」』を感じた。しかし、ここで本当に彼等は触れ合ったのかという疑問が生まれた。

「出てこいよ」「撫でてやるよ」「見るだろう」「閉じ込めるよ」「触れてみるよ」「キスをするよ」「おいで」
という様に、曲を通して言葉尻でこれから自分がするという意思を示しているものが多い。これが明確に示すのは「彼」が「君」に、実は触れていないという事ではないだろうか。

また、この事を踏まえてみると、「愛されたい、触れ合いたい」のに、強がって、遠まわしに、不器用に、そして痛々しいほどに
「おいで、おいで、撫でてあげるし、キスもしてあげるから、おいで」
と顔すら見えない暗闇で、その「誰か」に語りかけている主人公が突如として現れたではないか。愛されたいが故に反発する、というのがあるが、この「僕」に関して言えば愛されたいから愛しているとも言えるだろう。

また、ここは「明かりのない部屋」で、更に言えば「君」は「飛びこん」できた者である。果たして君が「君」である必要はあったのだろうか。あえて僕が答えるならば、これは「NO」である。ただ、自分と同じ世界に属する者ならば、彼にとって「君」は「誰」でも良かったのだろう。この絶妙な人間関係。顔の見えない世界におけるコミニュケーションにおいて、とかく個は没しがちになる。

彼は結局誰にも触れていないと解釈してきた。
触れてみたい、触れてみたい、しかしそれが出来ない。相手が来るのを待っているだけである。しかし温もりを欲す。このもどかしさだけが部屋にこだましている。やはり残酷だ。それが残酷な人間関係というものなのだ。


と、このように読み進めていくとどうだろう。エンブレイスの主人公がとても「きもちわるい」人間に見えてきたのは僕だけではないはずだ。もう一度リリックを読んで見ればわかるだろう。そして、わかりやすいのが最後のフレーズのコーラス。あれが異様とも云える恐怖を表現している事に気付くだろう。あまりにリアルで、生々しく、そしてやはり、きもちわるい。
「この部屋は大丈夫」?「体中の細胞フル動員で君を見るだろう」?
じつに必死であり悲痛である。韻の悪さを逆に利用した表現である。

だが、それはつまり愛するという事、抱きしめる事自体がそういう側面を持つということと同義だ。見方によっては、というかそれらは全て「きもちわるい」という性質を持っているのである。

これは「僕」自身についても言えることで、文頭にも書いた通りこの曲はただ受け入れる愛情、いってしまえば普通のラブソングとしてとってもなんら遜色はない。「僕」は「やさしい人」でも通る。しかし、ただそこにある一つの顔の存在に気付くことで「僕」は「きもちわるい人」にも成り得る。「エンブレイス」とはそういう事でもある。

しかし、それが「多面性」の産物であることをけして忘れてはいけない。僕は、彼のその必死さを理解して、それで彼の事を「きもちわるい」と評したが、このことを踏まえた人でも、それを「いとおしい」と感じる人も居るだろう。つまりその必死ささえをありのままにそう感じるという事だ。勿論、僕もそれを強く感じる。でも、その「きもちわるさ」と「いとおしさ」とおそらくもっとたくさんの感情を表す「言葉」とが交じり合って、全く僕を狼狽させてくれている。そうやって作られた僕の世界は間違いなく自分以外の誰にもわからないだろう。そして、素晴らしい。 

そのようなカオスと多面性が誰の心にもそれぞれの、そう、本当の意味で、それぞれ全く違う世界を与えてくれるのだ。だからこそこの曲は「誰でもどこかで出会う曲」なのだろう。