ウェザーリポート解釈

 バンプオブチキンといえば、「情景が思い浮かんでくるような物語的な歌詞で有名!」という風な事を良く言われますよね。ですが、COSMONAUTでは、宇宙飛行士への手紙や、R.I.P、66号線、モーターサイクルなどなど、なかなかその場の状況が描きづらい曲や、そもそもこれを単線的な物語として解釈すべきなのか、という歌詞が増えたような気がします。ウェザーリポートという曲に関してもなかなか特徴があり、確かに一つの物語がバックにあるという事は分かるものの、車輪の唄やKのように、少し読めば物語がすっと入ってくる、というものではなく、詞の物語再構成の解釈の段階で、人によって意見が分かれうるタイプの歌詞になっていると思われます。断片的な情景は浮かんでくるものの、全体としてどういう物語なのか曖昧、部分的によくわからないところがある…そういう方も多いのではないでしょうか。

 そこで、今回は僕自身の思うウェザーリポートという物語について書こうかなと思います。

雨上がり差したまんま 傘が一つ
決まり通り色を踏んで 濡らした紐靴
マンホールはセーフね 帰り道で
いつもどおり傘の中 笑顔が二つ

 小学生くらいの時、タイルの特定の色だけしか踏んじゃいけない、という決まりを定めて下校したこと、ありませんか。決まり以外のタイルを踏んだら「ぐっはー死んだー!w」とか盛り上がりながら。家の方面が一緒の二人は、最近よく降る雨のなかで、「傘は一つだけ、その中でいかに雨にぬれず、目標地点(=車屋の前の交差点)までの死亡回数スコアを減らしていけるか」という遊びに興じている・・・。そんな状況をこの唄の中では想定できます。
 <雨上がり差したまんま 傘が一つ>というのは、下校当初しきりに降っていた雨はもはや止んでいるにもかかわらず、水たまりを踏んで<濡らした紐靴>も気にせず、「傘一つ縛り」を定めたゲームを続行しているさまを表しているのでしょう。次の一歩に迷った二人が、どちらからともなく<マンホールはセーフね>なんて提案をして、<いつも通り傘の中 笑顔が二つ>、仲良く下校している・・・小気味良いビートを刻むリズム隊と、煌びやかなディレイサウンド、軽快に跳ねるような歌メロなどと相まって、この冒頭部分を聴いただけであれば、「幼い二人の密やかな幸せ」みたいな、幸福きわまりない状況を想像してしまうかもしれません。

何も言えないのは 何も言わないから
あんなことがあったのに笑うから

あなたのその呼吸が あなたの心はどうであれ
確かに続く今日を 悲しい程愛しく思う

 でも、今日の二人の笑顔には影がありました。学校ないし家庭で、<あんなこと>と歌われるような何かが起こってしまった。<あなた>に対して、何がしかの言葉をかけてあげたいと思いつつも<何も言えない>という状況について、「相手が<何も言わないから>、いつも通り<笑うから>」、と歌では“分析”、悪く言えば“弁明”されます(弁明、と私たちが意味付け/評価するためにはCメロでの転換が重要になるわけですが。後述。)。
 この事を踏まえると、先ほどのAメロの<いつも通り傘の中 笑顔が二つ>という部分の歌詞は、実はこういった気まずい状況の説明であったのだ、と意味づけることもできますね。

 <あなたのその呼吸が あなたの心はどうであれ 確かに続く今日を 悲しい程愛しく思う>という部分は、「ギルド」「オンリーロンリーグローリー」などでもよく使われている、<呼吸>というモチーフに焦点が当たり、バンプの詞を読んできた人であればあるほど、スッと入ってきて“しまいがち”である部分かなと思います。今回の場合も生命をメタに暗示しているということは言えるでしょう。<あんなこと>が、何か生命に関わることだったのではないか、と個人的には想像します。ですが、今回は「雨の降っていない日に、一つの傘の中に二人が入り、その状況で飛び跳ねている」という設定によって、<呼吸>がより生々しいものとしての意味を帯びているという点が重要になってきます。「embrace」*1でも描かれていた<呼吸>のねばっこい側面ではありますが、こちらは「灯りのない部屋」という状況設定が既にメタ的すぎるということもあり、「ウェザーリポート」の方がより<呼吸>の持つ身体性をリスナーに喚起しやすいものに仕上がっているでしょう。そして、このリアルさが、翻って“生命”というメタメッセージにより強い説得力を持たせるわけです。このあたりの巧みさに、藤原基央の詩人としての成長を見いだしたりすることも出来るかもしれません。

 で、2番です。

いつもより沈黙が 耳元で騒ぐ
次に出る言葉で 賭けをしてるような

 互いを思いやり合いすぎて、口数も減って来て、逆に気まずくなる。自分が放った言葉に対して、相手の<次に出る言葉>はどんなものになるだろうか、と探り合っている状況は、麻雀の牌の切り方やトランプの札を切る際に生じる心理戦そのものです。一つの傘の下、二人の顔の距離が限りなく近いという設定を再び思い出せば、<いつもより沈黙が 「耳元」で騒ぐ>というフレーズは、より生々しい情景を喚起してくれるでしょう。

夕焼けに差したまんま 傘が一つ
見慣れた横顔 初めて見たような

 じっくり時間をかけて生死を賭けた共同戦線を続ける<一つの傘>に、つきあいきれないと言った様子で沈みはじめた太陽が、赤い光を注ぐワンシーン。<見慣れた横顔>が<初めて見たような>ものとして映ったのは、彼女が抱える悩みのに加えて、この時の情景も大きく関わっている様に思ったりもします。こんなに近い距離で、夕焼けに染まった相手の顔を見る事は天気予報が外れなかったらありえなかったこと。普通に美しく、味わい深いカットだなぁと思います。

傷付いたその時を 近くで見ていた
この目の前でだって 笑おうとするから

あなたのその笑顔が 誰かの心を許すなら
せめて傘の内側は あなたを許してどうか見せて欲しい

 さて、ここは人によって解釈が分かれるところだと思うのですが、僕は<傷付いたその時>というのは<あんなこと>が発生した時でなく、傘遊びをしているまさにその時である、という風に解釈しています。理由は、そっちの方がおいしい話になる様な気がしまして。事件の現場に居れずに、話だけ人づてに聞いて、相手の方も自分の事が噂になっている事はなんとなくわかっていて、でもそのことを自分から話すのもなんだかなぁ…みたいな、絶妙な距離感というのが、今までの流れにも合っているように思われます。
 先にサビ部分の箇所を解釈しておいた方がよさそうですね。
 <あなたのその笑顔が 誰かの心を許すなら  せめて傘の内側で あなたを許してどうか見せて欲しい>という部分について、僕なりに整理すると、まず<あなた>は、被害者でありつつも加害者意識を持ってしまっている人間であると評価することができると思います。自分が被害に遭う一方で、自分の方にも罪を感じてしまっているが故に、怒りを加害者に向ける事ができない。おそらく、<あんなこと>が起こった時も、加害者=(歌い手の知らない<誰か>)に対して、自身の心は深く傷つきながら<笑顔>を向け<誰かの心を許>したのだと思います。そして、<この目の前でだって 笑おうとする>相手を傘の下で見たとき、「<あんなこと>が起こった時、こんな風に笑っていたんじゃないだろうか?」、と思い至ったからこそ、<傷付いたその時を 近くで見ていた>という風に捉えるに至ったのだと考えています。そして、ゆえに<せめて(自分が相手の)傘の内側は あなたを許して どうか見せて欲しい>と願ったのでしょうか。
 こうして、2番の歌詞の中で、<あなた>の<痛み>の片鱗を<笑顔>を通して垣間見ることとなります。そして、だからこそCメロで、その<痛み>に触れることに対して抱いていた恐怖に気付けた以下のような自己反省が続きます。

触れないのが思いやり そういう場合もあるけど
我ながら卑怯な言い訳 痛みを知るのがただ怖いだけ

 1番Bメロの頃に思った、<何も言えないのは 何も言わないから あんなことがあったのに笑うから>だなんて、自分を正当化するための欺瞞だった、<我ながら卑怯な言い訳>だったのだ、と。レトリックに関して言えば、Cメロを読んで初めて、<何も言わないから><あんなことがあったのに笑うから>という「理由付け」を、2回も続けて記述している理由に気付けるわけです。後半部分の気づきによって前半の部分が遡及的に意味付けを加えられ、結果的に詞全体が厚みを持つようになる…藤原基央が得意とするような、「唄」ならではのレトリック、ストーリーテリングですね。
 間奏をはさんで、いよいよ物語もクライマックスです。

最終下校時刻の チャイムが遠く
車屋の前の交差点で また明日じゃあね

 学校を出発して、時間も経てば、距離も相応に歩いてきた。<最終下校時刻の チャイムが遠く>というのが地味に上手い表現です。
 いつもの冒険の終わりの<車屋の前の交差点>で、今日の成果を反省して<また明日><じゃあね>。多分、二人は笑顔のままで、いつも通りに。

国道の川を渡って やっぱり振り向いたら
マンホールの上に立って 傘がくるくる

 ここもすごくいいシーンですよね。自分は<国道の川>というイメージを持って横断歩道を渡って、一方で相手は、<マンホールはセーフね>って事になっていた<マンホールの上に立って>いるという、ただそれだけのことなんだけれども、もう二人の共同作業は終わって、別々の通学路を歩き始めながらも、ゲームの続きを双方が続けているっていうその感じが…。
俯瞰的に言えばそういうシーンですけれども、自分がゲームを続けて<やっぱり振り向いたら>、マンホールの上に佇んで<傘>を<くるくる>させながらおんなじことをしていた相手を見たとき、彼に芽生えた感情を考えると、たまらなく切なくなります。そして、曲の中でも最も重要なのは、横断歩道についてはゲームが意識の上で続いていても、外見上はその意識は表出される事はありませんが、傘については、晴れている今、二人のゲームが終わったら、さしたまんまにする必要性は全くない、にもかかわらず<くるくる>させていたという事。つまりは…*2

あなたのあの笑顔が あなたの心を隠してた
あの傘の向こう側は きっとそうだ信号は赤
あなたのその呼吸が あなたを何度責めたでしょう
それでも続く今日を 笑う前に抱きしめて欲しい 抱きしめに行こう

 <傘がくるくる>からここまでに関して、もう、「いいなぁ・・・」と嘆息をもらすことしかできないのですが、傘の内側から出て遠く「外側」に立ち、ひるがえって傘が二人の表情を分かつ存在になった時に初めて、<あの傘の向こう側は… きっとそう(=本当は心のどこかで何かを待っている状態)だ>、という確信を持てるようになった、という逆説的な事態が起こっているということはかろうじて示しておきたいです。傘をたたまなかったのが意図的なのかどうかはおいておいて、その姿を見てしっかりとかれが「気付き」を得られた、というところも注目したいところです。そして、今自分が渡っている横断歩道の上から、相手の<信号は赤>という事を確認して、<抱きしめに行こう>と駆けだす…。
 音源においては、<傘がくるくる>のあと、演奏全体のボリュームが減衰していき、一瞬全て止まったのち、堰を切った様に、<あなたのあの笑顔が あなたの心を隠してた あの傘の向こう側は きっとそうだ〜・・・>とラストのサビへと続きますよね。この一連の流れの中で、傘がまださされたままであることへの違和感、そしてその理由に気付いた瞬間の、溢れださんばかりの感情が、100%表現されています。僕自身、電車の中で曲を聴いていて、ここに気付いたときは泣きそうなくらい駆けだしたくなりましたし笑! 何が<きっとそう>なのか、言い切らないところとかもすごく、いいです…。と、僕はそういう風にこの部分を解釈しています。
 どうやらこの部分は結構解釈が分かれるところのようで、<傘がくるくる>という部分を、相手が自殺をしようとして、それにはねられたとき傘が宙に舞っている様を表現したものと解釈している人もいるみたいです。なるほど、この明るい曲調で、その様な絶望的な事件が起こってしまった、そしてそれについて後悔をする主人公、というのは、なかなかにドラマチックなシーンでありますね。その後の繋がり方とかはどうかなと思う部分もありますが、いち解釈の可能性としてはなくはないと言っておきたいと思います。

車屋の前の交差点で ショーウィンドウに写る
相合傘ひとりぼっち それを抱きしめた 自分で抱きしめた

 そしてここも解釈が割れているというか、様々にありますねぇ。
 自分が抱きしめに行ったのか、それとも相手が自分で自分を抱きしめたのかというのが主な違いかなと思われます。 
 自分に関しては、今までつらつらと述べてきた解釈の上で、<それを抱きしめた 自分で抱きしめた>=「相手を抱きしめた 主人公が抱きしめた」という風に解釈しました。
 ここの部分が分かり辛くなっている理由として、<それを抱きしめた 自分で抱きしめた>の<それ>と<自分>が誰なのかが分かり辛い、という事が原因であると思われます。これまでの流れで行けば(長くてスイマセン…)、主人公自身が抱きしめに行く、という解釈に行きつくのは自然という風に考えて頂けると思います。そういった全体的な文脈に加えて、この一番最後の歌の部分だけボーカルに対してダブリング(歌が二重に重なってる)エフェクトとコーラスと強いコンプレッションがかかっていて…要するに他の歌の部分と非常にことなったエフェクトがかかっていることについて、<車屋の前の交差点で ショーウィンドウに写る >という歌詞もあり、これまでの「視点」が、ガラッと変わっているものとみなせるのではないか、というのも理由の一つです。主人公が抱きしめに行ったという解釈だと、あえて<「自分で」抱きしめた>と書くのは変かなぁとは思ったのですが、最後の部分までの歌詞が、ほぼ一人称に近い形で歌われていたのに対して、この部分は明らかに第三者の視点で歌われているとみなすことができるので、2サビのラストでも<笑う前に抱きしめて欲しい>と歌っているということもあって、単純に<自分>=主人公自身を強調するための表現と見ていいんじゃないかなぁ。
かくて、後ろから相手を抱きしめる主人公が優しくもきつく相手を抱きしめる姿を、<ショーウィンドウに映>す事によって、奥行きと余韻のあるラストシーンを演出しようとしてこういう表現になったのかなと思っています。
こういう感じで行くと、<相合傘一人ぼっち>という表現は、「<傘がくるくる>を<あの傘の向こう側は きっとそう(本当は何かを心のどこかで待っている状態)だ>と少年が解釈した」という解釈(ややこしいw)を裏付けるものになってくれるのかな。言葉で伝える事ができなかったことに対して、「抱きしめる」という解答で物語は幕を閉じたのでした。
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 とまあ長くなりましたが、こういう感じで「ウェザーリポート」は解釈しています。
 クライマックス部分の、<傘がくるくる>からの部分が特に素晴らしいですね。ここについて書くのを我慢するという意味で、「ウェザーリポート」について書かないままでいたのですが、半年も経てばもういいかなってことで。この類の仕掛けは他の曲にもいくつか眠っているように思っているのですが、「ウェザーリポート」の場合だと「あの傘の向こう側は…きっとそうだ…」の理屈に聴き手が気付いた瞬間、その聴き手は主人公になって物語により入り込むことができるという「仕掛け」になっているんですね(、と自分で勝手に思っている)。ドラマチックかつ文学的情緒が溢れる物語の中で、ミステリ的な仕掛けと論理性が遺憾なく発揮されているわけですが、これをポップソングの領域でやっている点*3には本当に脱帽します。以上、「ウェザーリポート」解釈でした。

追記:
言い忘れてた!メーデーという曲の筋書きと非常に似通っているウェザーリポートという歌ですが、個人的にはメーデーの場合あまりに詞が抽象的すぎるなぁと思ったことがありました、誰にも存在していたかもしれない幼少期の体験を土台にして具体的な物語に落とし込んでいるという点も、COSMONAUTの3曲目として、非常に重要だと思ってます。自分の中でorbital periodは理論であり、エンディングトラックの涙のふるさとで自らの過去・記憶と向き合う、という決意がなされたのち、cosmonautにおいて実践を行う、という位置付けを勝手にしているのですが、R.I.P、透明飛行船などと同列に、このウェザーリポートを評価することもできるでしょう。
あと、需要あるか分からないし、かつて無い黒歴史になりそうですが、ウェザーリポートで掌編〜短編小説書きたいなとか思ってたりしますw

*1:「抱きしめる」という最終解答も含め、実はこの「embrace」という曲との親和性はとても高い

*2:言わせんな恥ずかしい!

*3:あるいは「歌」だからこそできたことかもしれません