雨の唄

COSMONAUT出たけど全然解釈してませんが、友達の唄が公開されたということでなんか書きますw

友達の唄

バンプを聴いてる人には、詞の内容はかなりすんなり入ってきたと思います。
ただ、ラスサビの2回し目で、コーラスが入ってくる箇所。

一人称が「私」から「僕」になり、二人称が「あなた」から「君」に変わるところがポイントです。
「どうかあなたと同じ笑顔できっと思い出してね」と言う呼びかけに対して、「ああ忘れないよ」と、今まで歌いかけられていた側が最後の最後で歌う主体に転じる所がこの曲の面白いところという風に解しています。

雨の唄、「天体観測」と「友達の唄」

そのイントロですが。

貴方が大きくなるまでに 雨の日なんて何度もある
その中の一度は一緒に濡れたこと 忘れちゃうかな

突然の雨に打たれる体験なんてもうしばらくぶりに無いですが、必ずそんな日は何度もあったし、そこに誰かいたはずでした。でも、それを全て覚えていないということに気付いて、とてもハッとさせられる出だしでした。あるいは、ドラえもんの最終回で、成長したのび太が「君はこれから何度もつまづく」、と呼びかけるシーンを彷彿とさせられます。

しかし、この雨に打たれているという情景、どこかで見たような…

予報外れの雨に打たれて泣きだしそうな
君の震える手を 握れなかった あの日を

はい。言わずと知れた、「天体観測」です。
これに気付いて、やべえ、天体観測の別視点!?とかテンションが急激に上がりました。歌詞を見てみると、なんかそれっぽい雰囲気が随所に感じられます。
「引っ張られて走った 帰り道を探して 」⇔「静寂と暗闇の帰り道を駆け抜けた」
「今私が 泣いていても」⇔「予報外れの雨に打たれて 泣き出しそうな君」
「知らない空に一番星」
「一人におびえ 迷った時 心の奥明り行き空く そうか貴方は こんなにそばに」
  ⇔「「イマ」というほうき星 君と二人追いかけている」

全て⇔で結んでますが、なんとなくイメージの結び付きそうなものを並べてみました。

極めつけは、

信じたままで 会えないままで どんどん僕は大人になる

という部分です。
もちろん解釈は人の自由なのですが、作者の藤原さんとしては天体観測は「雨の唄」であり、「恋愛のうたじゃねえよ」というつもりで作られています。
天体観測は恋を歌った唄である、という解釈を、僕自身は全く否定しませんが、仮に天体観測をローティーンの「友情の唄」みたいなものとしてとらえたとき、上記のフレーズはかなり切迫感した不安を与えるものとして響いてくるでしょう。

ですが、ことはそれほど単純ではないみたいで、

からの冷たかった手が 初めて掴んだ手に

この一節をどうにかしないと、話は全く食い違います。
天体観測では

君の震える手を 握ろうとしたあの日を

君の震える手を 握れなかった痛みも

と歌われており、「実際には二人は手をつなぐことができなかった」と言うのが僕の解釈でしたし、おそらく多くの人がそうなのではないでしょうか。

実は、「君の震える手」が掴んだのではないか?

こっから非常に無理やりな話になるんですが…笑

「握れなかった」とわざわざ主題化して歌うとき、そこに込められているものは何でしょうか。それはおそらく、実際に手と手が触れ合わなかったという客観的な情報と言うよりも、「痛みを知るのがただ怖いだけ」で、その手を取りに能動的にアクションできなかった自分への痛烈な自己批判の意が強いと思われます。
むろん、客観的な情報として「握れなかった」という解釈もできる、というかそれが普通の解釈だと思うのですが…。
こう読むことはできないでしょうか。「握れなかった」というのは「(怖くて、自分からは、)握れなかった」という意味ではないか、と。

そうなれば、話が何とか繋がります。

予報外れの雨。
それは大きくなるまでに何度もあるようなことだけれど、その日、震える声の相手の手を握るべきか否か、ずっと躊躇っているところに、その子の方から泣き顔を必死で隠して手を掴んでくれた。
俺は何を迷っていたんだろう。
どうして自分の方から手を差し伸べてやれなかったんだろう。
そんな痛みを隠しながら、旅立つ相手を笑ってなぐさめて、望遠鏡を担いで、その手をひっぱりながら暗闇走り抜けて行く…。


みたいなね!w

経験上、「ずっと躊躇う」というより、手を握るという選択肢を全く気付かなかった所に、相手の方にわざわざ握らせてしまった、という場合の方が「握れなかった」痛みは大きくも感じますが…。

旅立ったほうの子が「知らない空に一番星」を見つけたとき相手の事を思い出すというというのも、かなり辻褄の合いすぎる感じになります。


いままでの天体観測の解釈が少し変わりますし、一番最初の解釈がとても強引ではあるのですが、「天体観測」、「友達の唄」双方に、かなり具体的なすれ違いの内実が加味されて、少なくとも楽しみ方の一つとしてはアリなのではないかなと思います。さて、いかがでしょうか?

コード

あ、あとギターコード軽く耳コピしてみたので、もしよかったら参考にしてみてください。BUMP OF CHICKEN的なオンコードいっぱいです。とりあえず歌えるはずです笑。

intro
D E/D

Aメロ
E A/F# Dadd9
E A/F# Dadd9 E
A/C# D E A/F#
D E Asus4 A

Bメロ
D E/D C#m A/F#
Bm C#m D Esus4 E  解放ギャーン

サビ
C Csus4 G/B
Am7 Am7/G FM7
C/E F D/F#
C/G Am7 FM7 G
Csus4 C

intro
Aメロ
Bメロ
サビ

intro
D E/D F/D G/D (←ローコードのDでずっと上がってくやつです)

サビ×2

F G F G F G G# A#

ラスト
F G 繰り返し

最後の方のF G…はadd9系かもわかりません。

「レスト・イン・ピース」

最近、なんとなく「R.I.P」の意味がわかった気がしてきているので、それについて。

キーになるのはやはりここでした。

ここに誰が居たかっただろう
それが僕にもなりえること
そんな当然を思うだけで
眠れないほど 怖いんだよ

たぶん、実際に藤原さんが夜中眠れないときに思った事なんでしょう。
小さい頃夜中眠れなくなって、親とか自分が死んでしまうときのことをぐるぐる考え込んでしまった、みたいな体験があるかないかで結構大きいと思うのですが、個人的にはかなりそのときの気分が思い出されるところです。
僕が思ったのは、もしも何かの拍子で、「いまこんなことを考えている僕」ではない、「顔も声も性格も違う僕」が、両親や友達に「(俺の本名)くん!」と呼ばれていたりしたらすごいおそろしいなぁ、とかそんなことでした。
まあこれはちょっと、この部分の詞の本義とはそれるのかな。「僕にもなりえること」とあるので、もうすでに僕は存在しているわけで、そうすると、単純に死についての恐怖を述べてるという部分になるんじゃないかと思います。
ここの部分を深く解釈するために、全体の展開を確認しましょう。おそらくですが、1番で

そこに君が居なかったこと

と述べられ、2番で

そこに僕が居なかったこと

とあるのは恣意的なものではありません。
1番で歌われているのは、「僕の過ぎ去った過去(そこ)には君が居なかった」ということ、2番では「君が体験してきた過去(そこ)には僕が居なかった」ということで、ごくごく当たり前の話、どちらが先でも、さほど変わりないように思えます。でも実際によくよく考えてみると、僕らは気付かないうちに認識の飛躍をしていることに気付くはずです。認知の順番としては、まずもって僕の記憶の中に君が居ない、という悲しい事実を経て、初めて、ああ、それならば同様に君の景色の中にも僕は存在しないのだなあという順序で思いがつづられている事も確認しないといけません。自分が記憶を持っている事が、そのまま他者もまた記憶を持っていることにはつながらず、コミュニケーションの繰り返しを経て、初めて、他者もまた自分と同じような痛みや記憶を持っているということが認識されるのです。僕の景色には悲しいかな君が居なかったことがある、そして、そのことから類推して言えるのは、君の景色にも僕が居なかったということ。それでも「今は傍に居られる」と、いったんここで、世界中は輝く。変わること、居なくなることは避けられないけれども。
長くなりましたが、ここではこうして1人称と2人称の隔たりについての思索が巡らされるということです。目の前にいる大切な人に想いを馳せるという状況(思いを馳せる、というのは普通遠くに在る存在に対して用いる表現ですが)から転じて、当初問題になっていた箇所に至ります。
そこでは「ここに誰が居たかっただろう」と、第3人称が問題になっています。全く顔の見たこともない誰か。
“相手”の居ない自分の過去の記憶が、君にそのまま投射されたように、変わっていくのならその未来をすべて見ておきたい、居なくなるのなら居た過去をすべて知っておきたいという願いも、それが叶わなかった誰かの「ここに居たかった・・・」という未練へとつながってしまうわけです。
「睡眠時間」でも歌われていましたが、やたらと眠る前は死を意識します。

このまま起きていられたらなぁ
子供はいつだって 大忙し

このまま 生きていられるかなぁ
馬鹿馬鹿しくたって 大慌て

いつまで生きて いられるかなぁ
いつまで生きて いてくれるかなぁ
このまま起きて いられたらなぁ
大人になったって 大忙し

眠る、横たわるといった動作は、そのまま死を意識させるもので、世界がこのまま無に帰してしまうかもしれない、もう二度と会えないかもしれない、といった、眠れないときの存在の在り方(あのしんどさも含めて)は、そのまんま死に臨まんとしている存在とパラレルでしょう。
床の中での苦悶を通じて死者の恐怖の片鱗を知るからこそ、そしていつかは自分もそこへ往くからこそ、「Rest in Peace」がより切実な意味を帯びてきます。忘れられてしまう、無に帰してしまう、という死に臨むもの恐怖に対して、生者の側から「安らかに眠れ」と呼びかけ続けることは、もはや呼びかける行為自体が死者にとって救い(忘却されていないことの明証)であるし、その行為体験はそのまま生者へ帰って来て、いずれ死にゆく自らにとっても救いたりうる。生きている限り、私の意識がそこにある限り、いつでも(私ではなく)他者が死んでゆく。他者のみが死に続けてゆく以上は、私は常に「生き伸びてしまったもの」である。そこには、私が生者である必然性も感じられず、とすればこの今横たわっている場所は、あるいはその他者が占めていた場所であるかもしれない*1。“ここに誰が居たかっただろう?”。ゆえに、「生き延びたものとしての咎に置いて、他者の死は私のことがらである*2。第3人称の死が、無限の責めとなって僕(と君)にのしかかってくる。

 これが曲中でリフレインされるのは、

地球で一番 幸せだと思った 
あの日の僕に君を見せたい

の直後からです。また理屈が入り組んでいるのですが、ここもまた、死を内包した生というものに関するところ。
背筋の曲がった、つらそうに歩く祖母。父に腕相撲で負ける祖父。そして、肩の凝りがちな母、いつしか私に腕相撲で負けるようになった父。あるいは、彼らの 皮膚には、無数の皺が刻みこまれています。それぞれの皺が、それぞれの生きてきた時間の経過を、もはや取り戻すことのできない、今や決して現前せず、過ぎ去った時間の証左となっています。2人称は、私の前でつねに、すでに、老いている。そして、それはさらに、もはや現前することはないであろう時を示すものであり、他者の不在そのものを先取りしてしまっている*3。一見冗長にも思える、Aメロ部の過去の追憶パートは、この抽象的な議論を具体的に素描するために必要な部分であったということでもあります。
そんな催事場での一コマでの僕。に対して、今の僕が、「あの日の僕に君を見せたい」と願うというのは、「互いに共に在らなかった世界」を消し去ってしまうという意図のもとにあると理解できます。
とすれば、この願いの根源は、意識の向かう先が過去か未来かという点が違うだけで、死に臨まんとする者が抱く、決められた生の長さに対する未練と一緒です。
この場面で、「安らかに眠れ」とリフレインされるならば、

変わっていくのなら すべて見ておきたい
居なくなるのなら 居たこと知りたい

という願い=未練の、儚さと勁さに、改めて苦しくなるはずです。

 「Rest in Peace」はおそらくこんな意味を持っています。意味を持っているというか、こんな経緯で、発語されているのだと思います。まあこの記事はのちのちちょいちょい手直しするかなぁ。今回レヴィナス先生にいろいろと助けていただきましたが、この記事を読んで興味を持った方は是非参照してみてください。

*1:E・レヴィナス『存在するとはべつのしかたで』

*2:講義録『神・死・時間』

*3:E・レヴィナス『存在するとはべつのしかたで』

「『悲しみは消える』と言うなら 喜びだってそういうものだろう?」

もはや今更感ある方もいるでしょうけど、HAPPYについて流石に言っておかなくては。なんの義務感だっつう話ですけど。
この歌詞って、曲調も相まってストレートな歌のようにも聴けます。予め、それは真実であるとも言っておきますが、実は執拗にひねくれ屋で、「才悩人応援歌」とか「ひとりごと」みたいな、“言葉の仕掛け”がたくさん仕掛けられています。

まずもってタイトルにも書いた、

悲しみは消えると言うなら
喜びだってそういうものだろう

と言う、ところの解釈なんですが、これは字義通りに受け取ってしまうとよろしくないと思うのですねー。

優しい言葉の雨の下で
涙も混ぜて流せたらな

という部分が直前にあるんですけども、この「優しい言葉」が『「悲しみは消える」さ!』みたいな物言いにあたるとみましょうか。

タイトルの記述の表記に注目してください。

「『悲しみは消える』と言うなら 
喜びだってそういうものだろう?」

そっかー、たしかに喜びも消えちゃってるもんだよね、藤くん!って解釈すると、ちょっと個人的には、どうかな、って思うのです。
どちらかと言えばベルの「僕のことなんか一つも知らないくせに」ってな感じ。


”アンタさぁ、「悲しみは消える」とか、えらい簡単そうに言って慰めてるつもりなんだろうけども、その理屈で言えば「喜びも消える」って事になるよなぁ?全然、救いになってねぇんだわ、悪いけど。”


この部分について、具体的な状況的を想起すると、こんな感じの、逆ギレっぽいもんになります。誰かの優しさとか善意が素直に受け取れないときと言うか、ううむ、素直ってのもおかしいんですけど、とにかく、こういうときは少なからずありますよね。

こう考えると「涙も混ぜて流せたらな」ってフレーズが、遡及的にアイロニカルな意味を帯びてきます。
涙なんて出ない、かどうかは言い切れませんが、少なくとも彼は「優しい言葉の雨」に、単純に救われるなんてことないんですから。
涙と優しい言葉は、溶け合うことはけしてなく、彼はため息混じりに「涙も混ぜて流せたらな」と嘯く…。

ただまあ、これは分かりやすく説明してるわけであって、大事なのは、文脈とか状況だけでみたら苛立ちとか八つ当たり感ばっかりが先立つ言葉に、こういう「音」が付与されているっていうところです。

そう、だから、その直後の、

誰に祈って救われる 継ぎ接ぎの自分を引きずって

ってフレーズも、刺さる。頭でなく心で理解されます。
「神の死」以降の宗教性、ポストモダン的主体の解体…*1、そんな風な言葉で説明することもできるだろうけど、もっと私たちの生において実質的な肉感がこのフレーズ宿っている。

そして、僕らが気付くことは

優しい言葉の雨に濡れて 傷は洗ったって傷のまま
感じることを諦めるのが これ程難しいことだとは

ということです。ただ、時間の経過もあって、1番のBメロほどアイロニカルには聴こえない気がしています。


そうそう、ここで「感じることを諦めるのがこれほど難しいことだとは」という告白がなされているので、それより前に歌われている、

健康な体があればいい 大人になって願う事
心は強くならないまま 耐えきれない夜が多くなった

膨大な知識があればいい 大人になって願う事
心は強くならないまま 守らなきゃいけないから

のところも解釈しなおさなきゃいけませんね。
もちろん、「健康な体/膨大な知識があればいい」と発語されたその瞬間の感情はそのままで構いません。発語された瞬間から、ある種の嘯きであることには変わりないと僕は解釈していますが、全体を見るとなるとまた微妙に意味合いが変わってくるという話です。
あと、細かいですが、「守らなきゃいけないから」という表現も、多義的ですね。ここはひねくれというより、切実さを感じます。

まとめてしまうと、
“「健康な体」も「膨大な知識」も、メシ食って呼吸して生きてく上では心の代わりにゃあなるけど、この「痛み」(って1サビで出てきますけれど)には、どうしようもない。”
てな感じ。

やっぱりここでも、アイロニカルなものを感じます。けども、決してシニカル(冷笑的)ではないところがミソですね(歌の力ってすごい)。

2サビに行きますが、あの心に関する「告白」を契機にふっきれ、うって変わって「優しい言葉」、そう「優しい言葉」が、それこそ「雨」のように続きます。ここがもう天才的というか、意地の悪さすら感じるw*2

終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる
無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて
借り物の力で構わない そこに確かな鼓動があるなら
どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう

一応さっきこれ書くにあたって「BUMP HAPPY 解釈」と、検索かけてみたりしたんですが、ここらへんの引用率はとくに高いです。まんまとみなさん「優しい言葉の雨の下で涙も混ぜて流」してるみたい!あんまりイヤミっぽく書くのは好きでないんですが、ここはHAPPYって結局なんだろうってとこにもつながる重要なところなので、あえて。

この部分がどこに位置付けられているか、ということをここでは考えたいわけで、内容についての解釈もまた、もはやあえて語ることもないと思います。バンプを聴いてきた方だったら、かなり既視感もありつつ、感じれるところかなぁと。個人的には「確かな鼓動があるなら」って所が特に好きです。

まあ僕自身も初聴は素直に感動してたということでご勘弁ください。そこらへんは素直に感じちゃう子ですよ。歌ですし。ただ、世の中にはバンプをまやかし励まし系ロックバンドと見てるひとも少なからずいるわけで、彼らにとっては、逆に「素直に」苛立ちを覚える箇所でしょう。

(余談ですが、今まで言ってきた感じで歌詞を読んで、そういう一般の人たちに対するアンサーちゅうかカウンターというかエクスキューズとして、あえてこれをシングルカットしたというのであれば、スタッフは本当にキレ者だと思いますが、実際のところどうなんでしょうか。構造的には、こういう回りくどいことは「才悩人応援歌」とか「ひとりごと」でもやっています。単純なポジティブソングは書きたくない、というかそれ以前に、そんなんじゃ全く響かないだろう、という作家としての矜持を感じます。)


そして、

優しい言葉の雨は乾く 他人事の様な虹が架かる

ここも、言葉で語るというより「わかるっしょ?」ってとこだと思うんですが、「他人事のような」という形容がトリックスターです。
単純に「他人事のような虹が架かる なんか食おうぜそんで行こうぜ」というフレーズで、グッとくるところはあるんですが、ここが「僕と一緒に歌おう」というフレーズと一つの歌の中で共存しているというところに眩暈すら感じます。
自分で、自分の歌(「優しい言葉」)がなんとなく誰かのうちに結んだ心象を、「他人事」と評しているという風にも解釈できるわけですから。
それが皮肉で終わらないのは、最後に

消えない悲しみがあるなら 生き続ける意味だってあるだろう
どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう

と歌われるから。

ひねくれ屋さん(かつての彼なのか、リスナーなのか、そこは多義的ですが)の唱える、

「『悲しみは消える』と言うなら 
喜びだってそういうものだろう?」

というロジックを、大げさに言うのならば、哲学者が本当には成し得なかったやり方*3で、脱構築してる所です。脱構築もまた、バラバラになった関係を構築してしまうから、そのような意味で2サビなんかは、ロジックによるロジックの打破であるがゆえに、理屈を超えきれないし、空疎に響きがちです。アレゴリー、「打ち棄てられた瓦礫が形作る一瞬の星座」は、形作られた瞬間にのみアその価値を放ち、即座に陳腐化するのと同じです

でも、この対応しあう2か所には論理の飛躍があり、それがゆえに論理を超えて(=ひねくれから開き直った)、不可視の領域から、差し伸べられる手がある。「『悲しみは消える』と言うなら喜びだってそういうものだろう?」に始まる、曲を通しての逡巡、それらを見て、「消えない悲しみ」を視てとった彼だから、「それゆえ生き続ける意味があるだろう」と言える。ここの「それゆえ」というのは、
“消えない悲しみがあるゆえ喜びも存在し続け、それは生きる意味になるだろう”
とか
“悲しみが生に重さを与えるゆえ生きる強度が生まれる”
とか、
“不在の悲しみが存在を逆説的に示すゆえに、その空っぽを抱えて絶えず「応答シ続ケル」倫理的責任が生まれる”
とか、
色々考えることはできそうです。ここはロジカルに考える余地はありましょう。

問題となるのは次の飛躍です。
「『悲しみは消える』と言うなら〜」から、「<消えない悲しみがある>なら」と手を差し伸べることができる飛躍こそが、そう…、人間的です。と同時に、歌という表現形式の持つ可能性について、実に真摯です*4


こんな感じで、ひとまず今回は「実はHAPPYて曲はちょっとひねってあるよ」的なことを言って終わりたいと思います。
形式についてばかりでしたが(最近の傾向ですね)、個人的にはそっちから主題(今回はHAPPY)に近付きたいのです。
とりあえずこういう考え方をしている僕が居るということを知って頂ければと思います。読んで下さった方が、一緒に曲を反芻する契機になれば、なお幸いです。

*1:これについては、ゆうたらバンプが宗教的エネルギーの対象となっているとも言える、少なくとも俺においては

*2:僕の意地が悪いだけかもしれないですけどね!

*3:素人の私見なんで専門家の方は優しく見てほしい

*4:結局、半分を「物語」という、条件を自分で設定できる土俵でやっているゆえ、完璧な脱構築ではない、と言わざるを得ないでしょうが

幸福論

HAPPYとか、幸せって言葉を最初に考えた人ってすげーなー、とか思ったので。語源チェックしてみました。
幸せ…

「しあわせ」は室町時代頃から使われ始めたといわれ、「為る(しる)」と「合わせる(あはせる)」が合成されて「仕合せ(しあはせ)」との名詞が作られた。この頃には「めぐり合わせ」の意味で用いられ、「しあはせが良い」(=めぐり合わせが良い)のように用いられていた。

江戸時代には、そこから転じて「しあわせ」が「めぐり合わせの良い状態」として用いられるようになり、そこから更に、状態や様よりも本人が感じる気持ちに焦点が移って「幸福」の意味で用いられるようになり、「幸せ」との表記があてられた。

「幸せ」という言葉のもともとの生まれは、何かと何かの「出会い」の瞬間に想いが馳せられた瞬間だったよう。まさに中島みゆきの「糸」にあるよな、「あるべき糸に/出会えることを/人は幸せと呼びます」ですね。

で、HAPPY。こちらは、何かが起こる、という意味の「happen」と由来をともにしている言葉のようです。ラテン語でhapというのが「何かが起こる」という意味をもつらしい。

よくよく考えれば、ひとつの言葉ができるのは、一人の人間が思いついてポンと出来るわけでなくて、たくさんの人と時間を移動しながら付属物がくっついたりはがれたりしてくわけですよね。

「魔法の料理」のリリースはいつかな〜、と思ってる矢先に、2週連続リリースが発表、でもってそのタイトルは「HAPPY」。なんかもうMerryChristmasからタイトルにあんま驚かなくなってきたのですが、今回は本当にどストライクだなと。
「R.I.P/MerryChristmas」が、「Orbital Period」から久しぶりのリリースということもあって、これ以降のBUMPの方向性を読みとるべき重要な素材だなと、(ここにはあんま書きませんでしたがw)新しい要素を探していたのですが、いままでバンプが使わなかった言葉で、めちゃくちゃひっかかっていた言葉が、そのまま今回のタイトルになっていたので、ああ、次のアルバムはこの言葉がキーの一つをになうのかなと考えています。
「地球で一番/幸せだと思った/あの日の僕に君を見せたい」
「いつもより一人が寂しいのは/いつもより幸せになりたいから/比べちゃうから」
「とこなつの国に生まれていたら しあわせ そこで生涯の伴侶と出会ったら よろこび」
「僕の生まれた国に生まれて ふしあわせ?ナンセンス un・・・ わかってる そう」
「どこであろうと生まれたらぜったい しあわせ un・・・ 恋人がいればぜったい よろこび woo・・・ そう今はいない けど将来的に出来たならば woo・・・ woo・・・」
NewWorldサミットの方に至ってはしあわせ連発どころかその逆の「ふしあわせ」まで飛び出してきます。うん、隠しに関しては、自分でもマジで言ってんだかネタで言ってんだか微妙になってくるとこですけど、今まで使ってなかった「幸せ」という言葉がここにきて繰り返し使われてるということで、ネタとして流してしまうにはいささか粗雑すぎることであるとは思います。
3曲を通して見ると、「出会い」「出来事(その最たるもの「誕生!」)」の意味でHAPPYが見事に体現されてるかと思います。

特に、「R.I.P.」について言及します。
個人的に、この曲はよくあるJpopの皮をかぶっていながらも、実はそれを乗り越えて行くような曲であると解釈しているんですが、例えば「そんな当然を思うだけで」の部分は、Jpopの文脈から照らしてみると非常にメタ的な表現だと言えます。歌詞に限らずですが、この世界や自分の生は、は偶然か、それとも必然でできているのか?という、「哲学的」な命題がありますよね。
数年前、スペースシャワーのMVAの授賞式の時、YUKIがコメントで、「自分は<運命は必然じゃなく偶然でできてる>と書きましたが、本当は<偶然じゃなく必然でできてる>と分かったので、これからはそう歌います」と言っていたのを覚えています。母親はしきりに感心していたのですが、僕はやや冷笑的に見ていました。その、自分の今現在の考え方に照らし合わせて歌詞を変えていくというスタイルは、別に悪くはないのですが、偶然とか必然とか、そんなことは日々の生活の中で分かるはずも無いし、分かったとしもごく個人の独りよがりな信仰に過ぎない、と見ていたからです。今そこでしたように、今後「いいや、必然でなく偶然に過ぎなかった」という信仰に変わってしまう瞬間が訪れる可能性は間違いなくあるわけで、キリがない。そんなことを高らかに歌ったり、変えたりするのは安易ではないか?
YUKIのJOYに限らずとも、そのような偶然/必然に関する歌詞は山ほどあります。奇跡/運命とかも同じですね。だいたい、「しょせん偶然に過ぎない、それでも(だからこそ)すばらしい」みたく偶然性を偶然性であるがゆえにありがたがる型と「自分の存在をタフに世界に意味づけて必然性を信じようとする」型とに大別できます。GReeeeNの「キセキ」では

僕らの出会いが もし偶然ならば 運命ならば? 
君に巡り会えたそれって奇跡

とありますが、煎じつめると前者です。「奇跡」という言葉は非常に使いやすいですが、あくまで、偶然に価値を賦与して言い表した言葉に過ぎません。ロジックとしてはちょっと飛躍しすぎている(歌としては、十分成立しているからいいんですけど)。
RADWIMPSの「ふたりごと」もこういう構図にあてはめられます。「神様もきっとびっくり/人ってお前みたいにできてない」というのは「必然性をはみ出した偶然性=奇跡的な君の賛辞」で、途中「奇跡だろうと/何だろうと/ただありがとう」と言い含めるものの、最後では「君は言う/奇跡だから/美しいんだね/素敵なんだね」と、やはり偶然性を称揚している結論になっている。ドラマチックな奇跡を結論付けている。

ようやくRIPです。初めてこの曲を聴いたとき、冒頭のサビメロの部分で、

そこに君がいなかったこと そこに僕がいなかったこと
こんな当然を思うだけで 今がこれほど

と歌われて、ああ、この「当然」が物語の中で「偶然」「必然」最後にまた「当然」、みたく変化していくんですね、わかります、とか考えていたのですが、まだまだでした。徹頭徹尾「当然」で、そこにい"いなかった”ことの当然性というテーマを歌ってから・・・つまり、大きく迂回して、「今は傍にいられること」について歌われるのですが、あくまでそれも「当然」でしかない。「今は傍にいられること・・・ これって奇跡!」みたいにはならない。
偶然/必然、運命/奇跡とかの2項対立に対して、「当然」という言葉をあてて、あえて評価の審級を一段階下げることによって、で、絶対にそれに運命性とか奇跡性を見いださず、あくまで「愛しい」とか「怖い」だけに留めていることで、逆説的ですが、メタに「出会い」「出来事」を描写しているんですけど。
そういう、徹底的に批評的なテクストが続いた一番最後に、

地球で一番 幸せだと思った
あの日の僕に君を見せたい

という願いがこぼれているのは、宙に浮かんでいる感じすらあたえています。
君がそこにいなかったということは当然、ゆえに、君や僕がそこにいない世界も当然あり得る、…でもその当たり前を思うがゆえに今が愛しく怖ろしい・・・とか散々言った挙句に、あの日の僕が君を見ている、っていうあり得ない光景を夢想するのだから。
でも、そんな矛盾も、それが「幸せ」と結び付けられると、説得力を持ってしまうから不思議です。プラネタリウムを初めて聞いたときに、BUMP OF CHICKENには「恥ずかしい」って言葉を使ってほしくなかった、とちょっと胸が痛んだのを覚えていますが、「幸せ」って言葉はそれと似た感覚を与えてくれます。

まあ解禁まで「HAPPY」について考えるのでしょうね。

ささやかな記憶とともに

R.I.P.の解釈というか感想だじょー。

今回ばっかりは初聴の時は曲構成とか各パートの複雑さに意識が行ってしまった笑 1番のAメロBメロあたり、ツーバスハイハットアルペジオの絡みなんかがPeople In The Boxみたいな香りプンプンでしたが、サビのメロのノートリックさとか音響的なオケで、良くも悪くもやっぱBUMPだなと。煌びやかなディレイのバッキングも印象的。サビ前とかCメロでさりげなく変拍子を入れてます。一見地味ですが、コレのおかげで疾走感というバンプの武器がさらに増強されてます。クランチギターのソロストローク後の間奏なんかは、全員で頭食って入ったり、4/3/4/4/2拍子(割り方これでいいか分からんけど)とかテラプログレ*1。ハイパーリズム隊(升&直井)タイムなわけですが、ここの変拍子も、そのあとくるブリッジのサビメロの歌に、拍の帳尻が合わさる感じが見事で、きちんと「歌モノ」として巧くやっているなと。短絡的に「今回ちょっと難しいことしてみました―」的意図で構成したのではないことが察せられます。


じゃ、そろそろいつもみたいな感じに。かるくさわりだけ。

自分がそうなんですが、Aメロの歌詞で、なんか今までと違うな、と感じた人は多いのではないでしょうか。
「具体的な固有名詞を連ねて情景を喚起させる」というのはこれまでもよくあった手法でした。

週末の大通りを 黒猫が歩く ご自慢の鍵尻尾を水平に 威風堂々と

LIVING DEADの楽曲などは、特に顕著にこのような形式で「物語」が紡がれていました。
でも決定的にどこか質感が異なります。少なくとも僕は、「R.I.P.」を聴いて、上記の「「K」とか、「天体観測」などの過去の名曲を彷彿とさせられる」ことまったくありませんでした。
R.I.P.」風にKの冒頭を書き換えてみるとこうなります。

週末の大通り 歩く黒猫 水平にご自慢の鍵尻尾 威風堂々

まあなんとなくお粗末なのは否めないが勘弁してけろw お気づきの通り、ほぼ体言のみで歌詞が構成されている点がBUMP OF CHICKEN的には新しい。「BUMP OF CHICKEN的には」というのは、割とこういう風に言葉を連ねる方がその他多くの歌には一般的で、むしろLIVING DEAD的な叙述の方がJ-Popの中では新鮮でしたし、BUMPの特徴的な要素の一つとも言えました。

この詞の大きな軸として「記憶」(のささやかさ、分かち合えなさ…)というテーマがあると思いますが、その表現のために、ややもすると陳腐になりがちな体言止め連発という手法を使ったのだと考えています。
前述したとおり、BUMPの評価の際に「物語的な歌詞」という表現が使われていました。今作も、与えられたフレーズ=断片的な映像を聴き手が頭の中で再構成して、物語を見ることはできます。ですが、それはもはや「物語的な歌詞」ではありません。「断片的な映像を聴き手が頭の中で再構成して」と書きましたが、この「断片的な映像」こそ、まさに主題たる「記憶」のありかただからです。

逆を言えば、天体観測は「君の震える手を 握れなかったあの日」(とそれを悔いつつも「今も今を追いかける」こと)を歌った歌でしたが、それはあくまで「記憶」を歌った「物語」であって、「記憶そのもの」を提示した歌ではなかった、とも言えます。「スノースマイル」や「車輪の唄」などにも同様のことが言えます。
同様に、これまでBUMP OF CHICKENは抽象的な概念としての「記憶」一般は幾度となく扱ってきました。しかし、「同じドアをくぐれたら」にせよ、「涙のふるさと」にせよ、具体的な記憶についての記述はありませんでした。「arrows」にしても、「嫌いな思い出」とは何か触れることはなかった。

また、この「記憶」が、素朴に聴き手のノスタルジアを喚起するためだけに、ありそうな情景を切り取って並べただけのもの、という批判も今後出てくると考えられますが、そういうレビューをした方は

君もきっと そりゃもう沢山 持ってるでしょう

というフレーズを見落としているという点で、批判されてしかるべきでしょう。メロに対しての詰め込まれ方は他の個所と比してかなり異質であるとともに、「いつものように」、いきなり語りかけるよな話しぶりになっているという点、聴き手に、書き手歌い手「藤原基央」という、誤解を恐れずに言えば単なる他人の記憶に耽溺するのでなく「自分自身の記憶」にこそ目を向けて欲しい、と目を覚まさせる非常に重要な役割を担っていると解釈すべきでしょう。Aメロ部の「藤原基央」の記憶は、例え似たような記憶を聴き手が持っていたとしても、あくまで「君の居ない記憶」でしかないことは曲中で何度も繰り返されています。この点で、ありがちな(そうだな…例えば「夜空ノムコウ」のような*2)他者のノスタルジーをあたかも自分のものとして安易に扱うことを拒んでいる。そして、「宝物のような記憶を君も持っているでしょう?」と歌われた直後に、

そこに僕が居なかったこと

と、勇壮で優しくて、どこか悲しげなメロディーが続く…。きちんと聴かないと分からないけれど、本当に巧い。これ、J-Pop的にも新しい。おいおい鳥肌がたっちまうじゃあないか。
あと、邪推ではありますが、こういうことに書き手がなのは敏感、彼が3丁目の夕日という作品に触れたことも関わっているような気もします。

記述するという点で何らかの取捨選択のフィルターを経ているわけで、その意味ではこのAメロ部分も「物語」に過ぎないと、すなわち、これまでの曲に通ずるという評価ももちろんできそうですが、あえて指摘するのならこの新しさの方でしょう。
そして、「分かち合えない日々のこと」を確認したらば、いつか終わる日々を知ったならば、痛切に,大切な人との記憶を作って生きようと思う。

同じものを見られたら それだけでいい 
同じ気持ちじゃなくても それだけでいい 
変わっていくのなら すべて見ておきたい
居なくなるのなら 居たこと知りたい

ちょっぴり独りよがり。思いの純粋さとも言える。
かくして、過去が未来につながっていく。


「記憶」についてはこのような感じでしょうか。
あらすじの解釈とかは特にする予定ありませんが「寂しいのは無(亡?)くしたからじゃない」とか、「ここに誰が居たかっただろう それが僕に なり得ること」とか、肝心の「R.I.P.」の意味がよく分からなかったり。
毎度ながら、また別な側面から書くかもです。

*1:てかやっぱピープル臭い

*2:普通にこの曲大好きですが

弱さを知りつつも「舵を取れ」と歌うこと

R.I.P.解禁までは、と思っていましたが、なんか気が向いたので。

もう2chのスレに張り付きまくって、フライング音源うpられんかどうかハイエナの如く過ごす日々ですしたが、それはまあともかくとしてスレにあった「ワンピースの映画の主題歌はバンプ」説にものの見事に踊らされていました。
結局担当するのはミスチルということで、ほほう、という感じ。「ほほう」、というのは、今のところ歴代のワンピ主題歌の中では、作品の主題を毒抜きすることなく伝えているという点で、BUMPのsailingdayという歌こそ最も優れたものだと考えているので。

まあ所詮アニメだし、ゴールデンタイムだし、ルフィ(海賊団)の「好奇心と探求心、そして無邪気さ」の部分を照らし上げた曲だとか、少年少女の冒険譚に見合うような素直で雄大な友情を称えるような曲とかでも、決してそれらは「間違い」ではないどころか「正しい」。ただ、それらはどうしようもなく、on the ground:『ONE PIECE』における正義と信念の問題

で指摘されているような本質部分を抜かれてしまったものという他ない。

「夜明けを待たないで帆を張った愚かなドリーマー」
「数えたらきりがない ほどの危険や不安でさえも 愛して迎え撃った 呆れたビリーヴァー」
「嵐の中嬉しそうに帆を張った愚かなドリーマー」

原作を一度でも読んだことがある人ならば、歌詞中のフレーズを目にして、もはやルフィの顔ばかり浮かんできて仕方ないはず。そういう表層的なイメージ面における主題歌としての役割も当然果たしているけれど、上記のフレーズに既に見え隠れしている様に、「強い信念がただしさを生む」という物語の核心部分にまで触れていく。

正解不正解の判断 自分だけに許された権利

テレビアニメを傍で見て、時折目や耳に入ってくるルフィの言動にニヒリスティックな感慨を抱く父兄は少なからずいるだろうが、ややもするとこのフレーズもまたそのような印象を与えかねない。でも、ここでの「正解不正解の判断」とは、両A面シングルとして発表されたsailingdayの相方、ロストマンという曲中の「間違った旅路の果てに 正しさを祈」るような行為と解したい。そうして僕らは、ルフィの言葉や行動に、sailingdayという曲に、その危険性に理解していたとしても*1、こっぱずかしいくらい、奮い立ってしまう。
そうして、実にエゴイスティックで個人的な意志の集まり―海賊たちや一部の海兵、あるいは歴史に名を残すことなく死んで行く人たちの群雄割拠の状態を、「誰もがみんなそれぞれの船を出す それぞれの見た眩しさが灯台なんだ」と歌う。海賊王にせよ、海軍大将にせよ。

唯一主題歌としてここどうなのって点があるとすれば、おそらくワンピースに対する作者の思い入れの強さによって、曲の中に彼の解釈や感想が入り込み過ぎている点でしょうか。ルフィというキャラクターの性質上、ハートが空になったり、途方に暮れるというのは、彼が主として行うことではない。むしろ読み手の方。ワンピースで言えばコビーみたいな奴らなわけです。その辺に、ちょっと違和感を感じないこともないわけです。ルフィこんな弱くねえぞ、と(笑)「グングニル」なんかの方が主題歌としてあってるんじゃないかとか、そういう話をよく聞きます。「人の、そして自分自身の夢を笑うな!」と、言うワンピースに初期から一貫しているメッセージが、sailingdayとは違って完璧に閉じ切った、寓話的な物語の形式で描かれている点で、作曲者のパーソナルな解釈・感想という「不純物」が無い。
とはいえ、「不純物」が故の共感も可能です。、きちんとどこからどこまでという線引きさえ出来てれば、ワンピースという作品やその登場人物が持つ力強さをうまく自分の「ハートに注ぐ」手引きともなるわけで。なにより、そういうのあるのが垣間見えた方がアツくなれるやんな。

現実問題、僕らがルフィのようになれるかといえば、せいぜい中学生まで*2。どうしたって、いろんな臆病や計算や値踏みやらが心を覆うようになる。でも、そういう弱さに気付いているからこそ、「それぞれの見た眩しさ」へ向けて、「舵を取れ」!と鼓舞することに、また違った感情が生まれる。それは、結果的にワンピースの読後感と似たものとなっているように思えます。

*1:http://d.hatena.ne.jp/rslog/20050418 および http://d.hatena.ne.jp/rslog/20050419 「近代」という言葉はアタマに「後期」と付けて好意的に読んでください笑

*2:こんな規範めいた一般論をしたり顔で言ってしまう俺は、その意味でもルフィとは程遠い場所にいる

ありがとう、さようなら

直接BUMP OF CHICKENとは関係のない話題になりますが、僕も長らくお世話になっていたバンプのファンサイトの「vivid sky」が、今月をもって閉鎖となります。
僕がこういう風な歌詞の解釈にのめりこむようになったのは、もちろん素晴らしい作品(バンプに限らず)があってこその話ですが、このコミュニティの存在なくしてはありえないものだったとも思えます。
作品を解釈して、それを文字にして…という作業は、とても個人的なことであることは間違いありません。しかしながら、そういった解釈が、どんな場所において紡がれ、どんな人にどんなふうに読まれるのか、あるいはそこからどんな対話が続いていくのかということは、そういう個人的な作業の前提環境として、行為を大きく規定していたということもまた真実です。さわやかなサイトの外観や、扱いやすさ、見やすさなど、誰かと何かを語らうに居心地の良い場所でした。
ただ、僕自身に、私はこんなに歌詞を理解しているのだ、という自己顕示欲が解釈を紡ぐ、対話に参加するという行為を促していた部分も少なからずあった気がします。こういった反省の気持ちもあって、書きこむ機会が少し減ったというのは、一つ上で書いた記事とも少し関連してるのでしょう。

僕にとってのvivid skyの消失は、たくさんのものの喪失を意味しているように思えます。まずもって<サイト>自体がなくなってしまうということが第一義的にあって、それに付随して、掲示板が無くなることで、<ログ>(言葉を交わし合ったという、今となっては痕跡のもの)が全て消え去ってしまうという状況が生じ、過去の自分の存在とか、ほかの誰かがいたことや、複数人で語らう中で生じた対話の流れが喪失されてしまいます。
顔も見たことがなければ出身も知らない。そんな人たちと、言葉だけのやり取りを続けてきたのだから、その「言葉」の蓄積が一挙になくなってしまうのは、非常に致命的であるようにも思えます。逆説的に、「所詮は言葉「だけ」がつながっていた」とも考えられるはずなのに、どうして今自分はこうも「身を切られるように」痛みを感じているのか?

過去ログを振り返ってみると、かつての自分がこのサイトで本当にたくさんの人たちと言葉を交わしてきたという歴史が、意義とか意味とかを越えて、とても大切な、かけがえのない物としてかみ締められてきます。いま、この人たちはどんなふうに過ごしているのかなぁ、とか、思いを馳せたり。でも、そういう風にして、この痛みは和らげられるのかもしれませんね。

なくなって初めてその大切さが分かる、みたいな歌詞がバンプの歌の中にもありましたが、今まさにそんな気持ちです。
最後になりましたが、管理人のナオさん、長い間本当にお世話になりました。そして、ありがとうございました。